2024年7月19日金曜日

瀬上主膳と戊辰戦争

  石巻市鹿又地区に梅木屋敷という地域がある。幕末に鹿又地区を治めていた仙台藩一家格の瀬上(せのうえ)氏とその家臣たちの屋敷があった地域だ。昭和の大火事などがあって、古い町並みは失われてしまったが住宅街は今も続いている。瀬上氏累代の廟所がある統禅寺、戊辰戦争で亡くなった家臣たちの慰霊碑がある日枝神社のほか、瀬上氏家臣だった岩淵家の敷地には戊辰戦争150年迎えた2019年5月に建立された「全殉難者慰霊の碑」があり、その歴史を刻んでいる。

             瀬上氏の墓所がある石巻市鹿又の統禅寺

 瀬上氏は伊達氏5代・伊達宗綱の三男・瀬上肥後守行綱を先祖とする。行綱は嘉元年間(1303年~1305年)に鎌倉幕府8代将軍・久明親王(後深草天皇第六皇子)から、陸奥信夫郡瀬上邑を賜り、瀬上を姓とした。代々伊達氏に仕え、幕末の頃に鹿又領主を務めていたのが二十二世の主膳景範(通称・再太郎)。景範は金ヶ崎領主の大町盛頼の弟で、二十一世景禄の養嗣子として瀬上家に入った。

 武闘派と知られる景範は、戊辰戦争で会津征討軍の先鋒・大隊長として出陣していた。しかし、会津に同情的だった奥羽二十四藩は会津降伏謝罪に対する寛容処分の嘆願書を奥羽鎮撫使に提出。奥羽鎮撫総督府下参謀の長州藩士・世良修三はこれを却下した。会津討伐に向けて福島の旅館兼妓楼だった金沢屋に入っていた世良は、秋田にいた同じ下参謀の薩摩藩士・大山格之助に宛てた密書を福島藩士に預けた。ところが、密書は仙台藩の瀬上のもとに届けられたのだ。「奥羽皆敵」「海陸挟撃の策」などどする密書の内容に瀬上は世良誅殺を決断。軍監の姉歯武之進に命じ、福島藩士らの協力を取り付けて金沢屋に向わせた。世良は捕らえられ尋問された後、阿武隈川河原で斬首された。これは、瀬上の一人の判断ではなく白石本営の決断がすでにあったとされる。

 その後、仙台藩など奥羽越各藩は新政府軍と戦うことになる。景範は白河城攻防戦に五番隊大隊長として奮戦するが壊滅的な敗北となり謹慎処分に。後に許され、秋田戦にも大隊長として活躍するものの仙台藩は降伏してしまう。敗戦後捕らえられ世良殺害について追及されたが「国許にて禁固するも、勝手たるべきなり」という微罪に終わり、翌年には放免となる。鹿又に戻った景範は邸宅に小学校を開設するなど地域のために尽力したと言われている。

 東北諸藩から忌み嫌われた世良修蔵は、周防国の庄屋の生まれ。萩藩校の明倫館、月性の時習館に学び、江戸に出て安井息軒の三計塾で塾長代理を務めた人物。長州藩の奇兵隊書記、第二奇兵隊軍監として活躍したことから有用な人物ではあるようだ。

 しかし、仙台に現れた世良は、藩主や重臣たちを侮蔑する態度や言動を繰り返したほか、城下で大声を出して商人らを脅したりする薩長藩士たちの行動を見て見ぬふりをした。高圧的な態度をとり続ける世良に、仙台藩の不信感は高まるばかりだった。これを裏付ける出来事があった。奥羽鎮撫総督府の九条通孝総督側近だった監察の戸田主水が世良、大山の悪行を書き綴った長文の手紙を残して出奔するとう事件が起きたのだ。戸田については、仙台藩から賄賂を受け取ったことが発覚して逃げざるを得なかったのではないかという指摘もあるようだが確証はない。

 当初、奥羽鎮撫総督府の下参謀は薩摩の黒田了介、長州の品川弥次郎に決まっていたが、直前で大山、世良に交代した。品川は京都で交流があった仙台藩の三好監物に「修蔵は甚だ劇凶」と注意したという。新政府は高圧的な態度で臨むであろう二人を派遣し、東北各藩と衝突させようとしたのかもしれない。

  日枝神社にある「當戊辰役碑」は、白河で亡くなった藩士のため明治27年(1894年)、瀬上主膳が祭主として慰霊祭を執り行った際、統禅寺にあった石碑を移転建立した。それが風化してしまったため、昭和60年(1985年)に主膳の曾孫によってその祭文を刻んだ石碑が建てられたという。

日枝神社にある戊辰役碑移転建立祭文碑

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