2024年12月16日月曜日

登米・寺池城と保呂羽館

  奥州葛西氏の最後の居城となった寺池城と保呂羽館の跡地を訪ねた。寺池城跡は旧登米町中心部の丘陵地にあり、現在は城址公園や裁判所,民家もある。中世山城としては小ぶりで、その南側の草飼山(くさげやま)山中にある保呂羽館が本城だとみられている。寺池城は伊達氏の時代になると重臣・登米伊達氏の館となり幕末まで続いたため、街並には城下町の佇まいが今も残っている。

寺池館の標柱がある城址公園入口

 石巻湊と平泉の中間点で北上川西岸に広がる登米地区。中心街にある観光物産センターが城址の麓にあり、城址公園の入り口はすぐそばだ。かつては城跡内に登米伊達氏ゆかりの品々を展示している登米懐古館があったが令和元年(2019年)に移転新築し、城址としてはちょっと寂しくなってしまった。

 一方、保呂羽館は山の入り口付近に葛西氏ゆかりの寺院:龍源寺や専称寺があり、登るとすぐに浄水場の建物が見えてくる。山頂手前に保呂羽館跡の標柱が建っており、本丸、二の丸、土塁、空堀などの遺構が現れる。東西約1km、南北約2kmという県内でも大規模な山城跡で大名葛西氏の実力を示しているかのようだ。頂上には葛西氏の前に城を構えていた小野寺新田氏の子孫が建立したという「保呂羽城址」の大きな石碑がある。

葛西氏の菩提寺・龍源寺

大型の山城をしのばせる保呂羽館跡

 葛西氏が寺池城、保呂羽館に移ったのはいつごろだろうか? 源頼朝の奥州征伐で功を上げ葛西氏は奥州総奉行、平泉の検非違使所管領の職務を受けた。このこともあって、江戸時代の史料には「平泉に居あり、のちに寺池に居住する。石巻の城は支城なり」というものがある。しかし、葛西氏は鎌倉幕府の要職に在り、平泉の治安回復まで一時的に平泉に住んでいたとしても、数年後には本拠地の下総、もしくは幕府のある鎌倉に戻ったはずで、「吾妻鏡」にもその存在が確認できる。また、鎌倉時代は寺池を含む登米郡は小野寺新田氏の領地で、葛西氏が居住するはずがない。葛西氏の惣領家が関東を去ったのは南北朝時代、6代清貞の時代とみられている。清貞は南朝側の有力大名として多賀城にいた北畠顕家らとともに参戦し、奥州の所領地・石巻に移った可能性がある。石巻湊には7代良清、8代満良、12代満重を供養する板碑があり、惣領家の移転を伺わせている。

 葛西氏が登米、桃生を手に入れ、岩手県北から宮城県北東部までの広大な領地を手中に治めたは伊達成宗の次男宗清を13代当主として迎えた後のことだ。永正8年(1511年)から13年(1516年)の永正合戦と呼ばれる戦いで支配地の拡大に成功した。「石巻市の歴史」第6巻「特別史編」では「伊達正統世次考」の天文17年(1548年)留守景宗状の内容などから葛西氏が、寺池に移ったのは伊達氏天文の乱(1542年 - 1548年)の終結後と言えよう。14代晴胤、15代義重、16代晴信の3代の居城になったとしている。独立意識が強く争いが絶えない葛西一族にとって、南端の石巻は不都合が多かったといことだろう。

 豊臣秀吉の奥州仕置き、再仕置きで葛西氏は改易。伊達領になった寺池には重臣の白石宗直が入り(水沢から転封)、大坂の陣の功績で伊達の名乗りを許され、初代登米伊達家となった。伊達本家から度々養子を迎えており藩主との結びつきを深めている。

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