仙台藩の支藩として一関藩が知られているが、中津山藩はほどんど知られていない。元禄8年(1695年)の立藩から同11年の本藩返領まで3年と極めて短い期間しか存在せず、藩主伊達村和(むらより)は一度も中津山に入部していなかった。家臣の移住も不明で藩庁の存在さえ明らかになっていないため認知度はかなり低い。村和の前の領地が水沢だったため水沢藩と誤って呼ばれることもある。改易の原因になった旗本とのくだらないいざこざ(土器町事件と呼ばれる)がなかったら、中津山の街並みがかなり違ったものになっていたに違いない。
北海道・東北藩史大辞典(雄山閣)によれば、中津山藩主になった伊達村和は、仙台藩三代藩主・綱宗の次男で、寛文11年(1682年)11月に元服。烏帽子親の田村宗良から田村氏の姓を賜って田村織部顕孝と称した。その後、水沢領主の伊達(本姓留守)上野宗景の養嗣子となり将監顕孝(のちに村任と改める)と名乗った。
元禄8年、四代藩主・綱村から三万石の分地を受けて中津山藩が成立。従五位美作守に任じられ名を村和と改めた。所領は桃生郡内の中津山、寺崎、牛田、倉埣、脇谷、永井、太田の7ヵ村1,100貫文と栗原郡三迫内の内猿飛来、平形、大原木、岩崎の4カ村400貫文の計1,500貫文で、残り1,500貫文は江戸蔵米支給だった。
村和は水沢から33人の家臣を従えて江戸に向かい、はじめは仙台藩麻布下屋敷に居住したが、麻布六本木に屋敷を賜って移ったようだ。
立藩3年後に起こった土器町事件については、国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書21「仙台藩の不通と忠臣蔵」(古川愛哲著)に紹介されている。要約するとこうだ。
元禄12年9月9日の夕刻、芝の永井坂で伊達村和の一行が下っているとき(重陽の節句で登場し帰る途中)、坂下から旗本400石・小姓組の岡八郎兵衛孝常が登城のため若党、槍持ちら5人を引き連れて登って来た。本来なら騎馬で登城すべきだが、旗本が馬を飼う余裕のない時代で岡は徒歩だった。
往来の真ん中を歩く岡の前方を村和一行の行列が道を塞いだ。天下の旗本を自任する岡は、行列に向かって「常々は馬にて登城つかまつり候ども馬あい患いて徒歩立にて候」と、弁明めいた口調で声を張り上げた。村和の供揃えはバラバラと散開したのだが、供揃えの一人が岡八郎兵衛を手で突いたため、高下駄の岡は雨上がりでぬかるむ地面にひっくり返ったのだ。起き上がった岡は「御直参に狼藉したな」と叫ぶやいなや村和の供揃えの一人を斬った。供揃えたちは岡に殺到し大小をもぎ取ると、見物していた町人にそれを預け、さっさと麻布の屋敷に帰ってしまった。
腸煮えくり返る岡は、上司への欠勤届を書上げると家来に持たせ城へと走らせた。自らは槍を抱えて村和邸に向かい、門前に付くと「開門!」と叫び、門番に「美作守出せ」と凄んだ。むろん、村和が出てくるはずはない。
この騒ぎに村和の親戚・伊達一門が繰り出してくる。あわや一戦のところ急報を受けた幕府大目付、目付、岡の上司の小姓組番頭が割って入って収めた。この騒動の始末として、幕府は伊達村和を仙台に蟄居させたうえ領地は本藩没収。岡八郎兵衛は逼塞とし「喧嘩両成敗」で決着をつけた。
窮乏する旗本の不満を小大名への嫌がらせで晴らそうとしたのかどうかは分からないが、どうもやり切れない事件だ。村和一行も大人の対応をしていればよかったのだが、大名になったばかりで傲りがあったのかもしれない。村和は中津山に一度も入るこななく藩主の座を降りた。
北海道・東北藩史大辞典で「伊達村和領」の項には、家臣たちが中津山に移住していたかは不明。まだ、仙台藩の管轄下にあったのではなかろうか―としてる。中津山は重臣の瀬上氏や長沼氏が知行地として治めていたので、それなりの屋敷や家屋があったはずだし、寺崎は宿場町として栄えていたのだ。3年も何もしないでいたとは思えない。推測に過ぎないが、先行してやって来た家臣たちの手で藩主を迎える準備が進められていたのではないだろうか。しかし、突然の事件で廃藩となり、その努力が報われることはなかった。
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