石巻市小船越岩崎前の集落に数基の板碑が折り重なるように建っている。隣に巨大な近世の記念碑があり、板碑はそれに合わせて1か所にまとめられたようだ。もとは近くの別の位置にあったものだろう。その中で一番大きい板碑は、太夫太郎の極楽往生を願って建立された元亨2年(1322年)の碑だ。その南側、鹿又の八幡神社境内に藤原氏から嫁入りした女性のために建立された元徳2年(1330年)の逆修板碑(生前供養碑)がある。この二つの板碑の関連について調べてみた。
「桃生・山内首藤氏と板碑」(1999年、桃生町教育委員会刊)によれば、葬られた太夫太郎とは太夫の長男を意味する。太夫は正・従五位の官人を指すが11世紀ごろからは国の行政にも参画する地方豪族も称するようになったという。鎌倉時代に桃生郡の地頭職を得たのは山内首藤氏で、その祖経俊は従五位下に叙され刑部太夫と称した。地方豪族となった山内首藤氏関係の板碑と言っていいのかもしれない。
「桃生・山内首藤氏と板碑」には、鹿又矢袋屋敷合の個人墓地内にある太夫二郎のための嘉元四年(1306年)碑、亡き子六郎の五七日を供養する建武2年(1335年)碑も取り上げられている。ところが、「河南町の板碑」(2015年、佐藤雄一著)には、太夫二郎、六郎の名が残念ながら読み取れず被葬者知れずの板碑になっている。でも、鹿又地区には道的板碑群、光明寺板碑群など中世板碑が多く、有力者が住んでいたことには疑いがない。
藤原氏女の板碑は、藤原姓の豪族から嫁いできた人物のもの。近隣とすれば宮城郡を領地した留守氏が有力で、留守氏と山内首藤氏は婚姻を重ねていたことが知られている(余目旧記)ことから、山内首藤氏関連の板碑として注目される。
ちなみに、「桃生・山内首藤氏と板碑」では、藤原氏女が留守氏から嫁いだとすれば、家格からして桃生・山内首藤氏の嫡流であるべきで、太夫一家は鹿又で一定期間生活していたと推測。太夫太郎の供養碑が岩崎前に建立されたのは、水害で埋葬(居住)が不可能になったためと考察している。ただ、居城と寝屋が別だったとしても七尾城から鹿又は少し遠いような気がする。嫡流でなければ納得できるのだが、それならば太夫と名乗れるものなのか悩ましい。
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