2023年5月8日月曜日

大崎義宣(小僧丸)終焉の地

  伊達家14代当主・伊達稙宗の次男小僧丸は、奥州探題家の大崎氏10代当主・大崎高兼の娘と婚姻し大崎家に入った。大崎義宣と名乗り次期当主として歩み出すが、大崎家を二分する権力闘争に敗れて逃走。葛西領内に逃げ込んだが捕らえられ、討ち取られた。石巻市大森の辻堂橋付近がその捕縛の地とされ、観音堂の脇に大崎義宣の墓が建っている。戦国時代に生まれたが故に悲運の最期となった大崎義宣。お家の事情に翻弄され続けた生涯となった。

                   石巻市大森にある大崎義宣の墓

 伊達稙宗は、分国法「塵芥集」を制定し領国支配を固めながら、左京太夫の任官、陸奥国守護職の補任とその地位を高め、東北一の大名へと成長させた。東北の雄としての地位を固めるためだろうか、稙宗は東北各大名家に子供たちを養子や嫁として送り出し、後に嫡男晴宗と衝突するきっかけにもなる。

 大崎家は高兼が突然死去したため弟の義直が当主となった。ところが、有力家臣の反乱が勃発して劣勢になった義直は、伊達稙宗の居城だった桑折西山城に逃げ込み助けを求めた。稙宗の力を借りて勢力を奪還した義直だが、稙宗の次男に亡き兄の娘を娶らせ、大崎家に迎え入れることを強いられた。

 上杉家への入嗣問題を発端に伊達稙宗と嫡男晴宗が争った天文の乱(1542年 ―1548年)は、東北の各大名家にも影響を及ぼし、大崎家では義宣が稙宗派、義直が晴宗派となって争った。前半戦では義宣の活躍がみられるが、晴宗派の巻き返しとともに苦しい立場に追い込まれいく。足利将軍の調停で稙宗が隠居し、晴宗が当主になったようで実質的に晴宗派が勝利。稙宗派は粛清される運命にあった。大崎義宣は大崎領を抜け出し葛西領へと入ったが、捕らえられ斬殺されたとみられる。

墓の周辺は小さな公園になっている
                辻堂橋近くの墓入り口に付近にある標柱

 そのころ、葛西家には伊達稙宗の六男と伝わる牛猿丸(ぎゅうえんまる・うしさるまる)が入嗣した。ところが、仙台藩と南部藩に伝わる系図では、牛猿丸がだれの養子になってどう名乗ったのかについて大きく異なっており、奥州葛西史解明の障害になっている。「仙台葛西系図」では、14代晴重の養子となり、のちに晴胤と名乗り15代を相続したとする。「盛岡葛西系図」では、14代晴重の長男守信の養子になり、のちに晴清と名乗り33歳で早世したとする。「石巻の歴史」第6巻「特別史編」の『葛西氏の歴史』では、都合の悪い史料も存在するとしながらも晴胤の伊達出自説を重視、「伊達氏と戦国争乱」(遠藤ゆり子編、吉川弘文堂)の『大崎氏と近隣国衆」(佐藤貴浩執筆)の項でも「牛猿丸が天文10年ごろに葛西氏の家督を相続したは間違いない」と仙台系図を支持する。一方、郷土史家の紫桃正隆氏は著作「私本 奥州葛西記」(宝文堂)で、「年齢対比の面からして盛岡系図に信を置かざるを得ない」と断じている。当時の資料が少ないうえ、江戸時代かかれた書物の信憑性が薄いため混乱を招いてるようだ。牛猿丸が晴胤なら大崎義宣が弟を頼りに葛西領を目指したのもうなずけるのだが、葛西領に逃げ込んだのに大崎勢に捕らえられるという矛盾もあって悩ましい。

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