2023年3月25日土曜日

横川宿と釣ノ尾城

  北上川右岸沿いの県道を追波湾に向かって進むと、突然と住宅街が出現する。旧河北町横川地区だ。海と北上川を結ぶ港として発展した横川は、戦国時代末期に最盛期を迎え江戸時代初めまで繁栄したと言われている。伊達政宗は最晩年の寛永13年(1636年)正月、鹿狩りのため十五浜(旧雄勝町)を訪れた際に横山宿に立ち寄ったのだが、あまりに寂れた様子に狂歌をうたって嘆いたという。この横川宿の東端に突き出た丘陵地に建っていた釣ノ尾城は葛西氏の支城で、戦国時代には葛西家老職も担った山内首藤氏の一族が治めた。桃生郡を支配した山内首藤氏とは別系統で福地氏とも呼ばれた。

                横川の街並み。奥の山に釣ノ尾城跡がある

 伊達成実が著した政宗の一代記「政宗記」によれば、伊達政宗ら一行は寛永13年正月19日に若林を立ち、3日を経て十五浜という島(実際は陸続き、遠島と呼ばれていた)に来て鹿狩りを行った-とある。そして、南次郎吉・加藤十三郎という寵愛する2人を含めた小姓らたちに政宗公はこう語った。「この行先に横川いう船場あり。小さな町だが建物などは仙台とも見劣りしない。北上川の湊で中奥の都なり。若者たちにこの地を見せてやりたい」と言うのだ。この時、政宗は70歳。この年の5月に江戸で病死することになる。20代の頃に政宗が釣の釣のお城跡の麓になる八幡神社。昔は大ヒノキがあったそうだが、朽ちて切り倒されたお城跡の麓になる八幡神社。昔は大ヒノキがあったそうだが、朽ちて切り倒された

 ところが、寛永末期の横川は、川村孫兵衛が指揮した北上川改修によって航路が一変して交通量が減少。町の勢いは急速に衰えていたのだ。それを見た政宗公は「如何なれば斯程に寂びたるぞ。事の次第を申し述べよ」と町の顔役たちを前に立腹したらしい。余程腹が立ったのか横川出発の朝に次の狂歌を書き残した。

               釣ノ尾城跡の麓にある八幡神社。昔は大ヒノキ
               があったそうだが、朽ちて切り倒された

 「堅ならば足袋や拾の緖にもせん何の役にも立ぬ横川」

 堅(たて)とは、ひねり文のことで、こよりにすれば足袋や弓懸(ゆがけ)の緒になろうが、横川は役に立たんと切り捨てた。政宗自身の政策で寂れてしまったとは、だれも言えなかったのだろうか。

 横川・釣ノ尾城の城主は葛西9代満信の長男信宗だった。室町幕府と鎌倉の関東府が争った永享の乱(1438~39年)で、葛西氏は鎌倉府側に付いて参戦。その戦で不運にも信宗が討死しまう。福地・山内首藤氏の祖・宗通も鎌倉方として参戦していた。葛西満信の三男で10代当主となる持信に招かれた宗通は永享11年(1439年)に葛西領に移り、空城になってしまった釣ノ尾城が託された。2年後には弟の俊高も奥州入りし福地館山館に入ったとされる。こうして、福地の山内首藤氏は謀らずして桃生郡を治める北上川対岸の山内首藤と向き合うことになった。

               福地館山館跡を望む

 豊臣秀吉の奥州仕置、再仕置で滅亡した葛西家とともに領地を失った時、福地・山内首藤氏の当主は9代左馬之助俊成。葛西四大家老の一人でもあった。天正19年(1591年)8月、葛西・大崎一揆終息後、深谷糠塚(須江糠塚)に葛西・大崎の武将たちが集められ、伊達軍に誅殺されてしまうのだが、左馬之助は危険を察知したのか本吉・入谷に逃れ無事だった。その後、長男右衛門、次男彦衛門は伊達家臣へと転身したようだ(紫桃正隆著「水軍 福地左馬之助一族」)。

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