2023年2月22日水曜日

須江丘陵の古代、中世、現代

 須江丘陵は古代、中世遺跡が多い地域として知られている。石器時代や古墳時代の生活の跡も確認できるが、奈良・平安時代には瓦や須恵器の一大生産拠点として発展する。須江瓦山窯跡や代官山遺跡などの須江窯跡群は、隣接する赤井官衙遺跡群や道嶋氏と関連するみられ、注目されている。中世になると葛西氏もしくは長江氏の支配下となり、家臣の館跡が残っている。東日本大震災後は高台の住宅地として注目され、一気に民家が立ち並んだ。

鹿又地区から須江丘陵北端を望む

 須江丘陵では、北から南まで広く窯跡が分布しており、8世紀から10世紀にかけて約200年にわたり工人たちが住み瓦や須恵器、土師器などを生産し続けていたことが知られている。昭和61年(1986年)度に調査した須江糠塚遺跡では奈良時代から平安時代初期にかけての住居跡9軒、9世紀後半から10世紀きかけての窯跡6基が確認されている。さらに広がりがあることも報告されている。

 昭和61年から平成9年(1997年)まで継続して調査されてきた関ノ入遺跡では奈良時代から平安時代前半までの竪穴住居跡50軒、9世紀初頭から10世紀前半にかけて須恵器を生産した窯跡23基、9世紀代を主とする粘土採掘坑跡49基などが発掘されている。

 須江瓦山窯跡には,奈良・平安時代の瓦や須恵器を生産した窯跡群がある。瓦の一部は牡鹿郡家あるいは牡鹿柵跡と推定される赤井遺跡に供給されているという。

 代官山遺跡では, 8世紀後半と9世紀後半の窯跡が各1基ずつと、 8世紀末から9世紀初頭にかけての竪穴住居跡1軒が検出されている。こほか、細田遺跡からも須恵器や土師器、窯体の一部が発掘されている。

 これらは、焼き物に必要な粘土が須江丘陵で大量に採掘できたことと牡鹿柵など消費地が近くにあったことなどが要因になって発展したものとみられる。

 中世に入ると、鎌倉御家人たちの領地となり山城が登場する。須江丘陵北端には糠塚館跡ある。JR佳景山駅や河南東中に囲まれた地域で、近年は石巻広域水道の施設があった。『仙台領古城書上』『仙台領古城書立之覚』では須藤勘解由左衛門が館主とされる。『葛西氏家臣団事典』(紫桃正隆著)によれば、糠塚・須藤氏は「七尾城首藤氏と同根の一族とみられる」とあり、葛西氏に首藤氏が滅ばされた後、葛西氏の傘下になったようだ。また、『日本後記』にある中山柵の擬定地の一つ(涌谷町箟岳山、登米市米山町中津山、石巻市佳景山)でもあり、今後の調査が待たれている。

 須江丘陵中央部東側にある塩野田館は東西80m、南北230mほどある城郭で北郭、主郭、二の郭の連郭式の構造を持つ。北郭は現在、北野神社境内になっており登り口に案内板がある。館主は糠塚館と同じ須藤勘解由左衛門もしくは石崎勘解由左衛門と伝わるが同一人物とみられる(葛西氏家臣団事典)。「須江村風土記書上」には一説として矢代斎三郎の名がみえるが、この人物ついては出自、事績とも不明。

 須江丘陵の南側には長者館跡があり、金売吉次の仮屋敷跡もしくは宿舎と伝わっている。金売吉次は平安時代末期に奥州から産出された金を京で販売する商人で、源義経が奥州藤原氏を頼って下向するのを手伝った人物とされる。しかし、これまでの調査では同年代の遺構が確認されていない。

 須江丘陵南部では昭和63年(1988年)に大規模な宅地開発が動き出した。しらさぎ台としてスタートしたが、景気の悪化で完成後も販売が思うように進まなかった。ところが、東日本大震災後は一転して移転居住者が急増。今では住宅がきっしりと並んでいる。蛇田地区に住んでいた中学の頃、しらさぎ台は造成中で、整地後しばらく放置されていたため遊び場となっていた。泥だらけになって自転車を乗り回していた記憶が鮮明に残っている。 

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