2022年11月21日月曜日

真野の遮那山長谷寺

 石巻市真野の遮那山長谷寺(しゃなざんちょうこくじ)は、歌枕「真野の萱原」のある曹洞宗の寺として有名だ。長谷寺の縁起(貞享縁起、貞享3年)によれば、奥州平泉の藤原秀衡が創建し、美しい殿堂で人々の崇敬の念を集めたという。そののち盛衰を繰り返し、鎌倉主将の命を受けた平小三郎、梅渓寺八世伝室龍舒らが再建に尽力した。遮那山長谷寺の寺号は龍舒和尚の時代らしく、秀衡が保護した源義経の幼名(遮那王)にちなんで付けられたのだろう。かつては仙台藩主が参詣するなど、存在感のある寺だったようだ。

石巻市真野の遮那山長谷寺

 真野の萱は、立秋の頃になると葉がみな片方の茎に寄って東南にたなびくので「片葉の蘆」として珍重された。このため、万葉集などに多くの和歌がつくられた。松尾芭蕉は「奥の細道」で石巻市真野の萱原を歌枕の地として紹介しているが、石巻市真野が歌枕の地として確定しているわけではない。「片葉の蘆」そのものは少ないながら全国各地にあるようで、福島県南相馬市鹿島地区の真野川沿いも有力地として知られている。ともに真野の萱原と呼ばれていた可能性もあるろう。

長谷寺境内にある「真野の萱原」

 秀衡の創建と伝わり、境内には秀衡が収めたという十一面観音が大悲閣(観音堂)に鎮座している。その後、荒廃した寺を再建した平小三郎は、平姓を持つ葛西氏であろうし、三郎は葛西当主が受け継ぐ名前なので当主の嫡男(小三郎)に任されたということだろうか。長谷寺の北西部には小屋館跡という山城跡があり、葛西氏(5代清宗)が関東から船で下った際に建てた仮の館だと「真野村風土記」に書かれている。真野と葛西氏との深い関係を伺わせる。

 その後、長谷寺は道仏、両蔵、伝室龍舒、興津源兵衛、明覚院、静水快音らによって再興され、現在に引き継がれた。

 ところで、遮那山長谷寺の寺号を持つ寺が、真野長谷寺のほか登米郡水越村(登米市)、桃生郡太田村(石巻市桃生町)、本吉郡南沢村(登米市)、江刺郡黒石村(奥州市)の四つある。観音信仰という共通の部分もあるが、それぞれの関係は分からない。北上川、真野川沿いにあるので舟運に結ばれた平泉との関係があるのかもしれない。

 真野長谷寺境内には75基の板碑が保存されている。長谷寺周辺から発見された板碑を整理したもので、そのうち文永2年(1265年)の板碑は石巻市内では最古。県内最古の板碑とされる河北町三輪田の高徳院の文応元年(1260年)に次ぐものだ。さらに、文永2年の板碑は改刻再利用された痕跡があるので、これ以前に板碑の風習があったことが分かる。早くから関東武士団がやって来た証拠と言えるだろう。

長谷寺にある板碑群。石巻市内で一番古い板碑もある

 

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