2022年10月7日金曜日

謎多き十一面観音立像

 石巻市給分浜後山にある十一面観音立像は、鎌倉時代初期の貴重な木彫として知られている。旧桃生町太田の日高見神社にあったものが、中世になって給分浜に移されたとする記録はあるが、安倍一族が源頼義、義家父子に攻められたとき、もしくは奥州藤原氏が源頼朝に攻められたときに衣川に流したものが流れ着いたという伝説が地元に残っている。葛西家臣の遠藤氏が観音像を浜で拾い上げ観音堂を建てたという伝承もあるが、その真相はよく分かっていない。謎の多い観音様だ。

給分浜後山にある十一面観音立像の収蔵庫。
普段は公開していない

 給分浜の十一面観音立象について、石巻市のホームページでは「十一面観音立象は高さ3メートルあり、ふくよかな気品は昔から多くの人々に変わらぬ茲眼を注いできました。鎌倉時代に奥州藤原氏の守り本尊だったものが、源頼朝に攻められてときに四代泰衡が衣川にながしたものだと伝えられています。大正4年に国重要文化財に指定されました」と、奥州藤原氏の伝説のみを紹介している。

 一方、宮城県のホームページでは「カヤ材一木に顔と胴体を彫り、背面を刳り、背部も一木から彫ったものを前後に合せる古い手法で造った立像である。強い男性的な表情を持ち、肩巾が広く張り、腰廻りが太く堂々とした体躯で、よく均整がとれている。古く桃生町の延喜式内社日高見神社の本地仏とされたものが、中世にこの浜に移されたものと思われる。もともとは彩色していなかったものを室町時代以降に今のように彩色修理した。高知県恵日寺の十一面観音像とともに、鎌倉初期にさかのぼる貴重な遺例である」と宮城県史の内容に沿った説明になっている。

 日高見神社は、景行天皇(実在すれば4世紀前期から中期にかけての大王と推定)40年に日本武尊が日高見国の賊を平定したことをたたえて建てられたと伝えられているほか、源義家が安倍貞任討伐の際に社殿を作ったとも伝えられている。神社に観音様はふさわしくないが、近くには源頼朝が弟の義経(遮那王)の冥福のために建てたと伝わる遮那山長谷寺(しゃなざんちょうこくじ)あり、元々はこの寺の観音堂に十一面観音立像があったという。仙台藩の「風土記御用書出」には、長谷寺と観音堂が焼けたため本尊の十一面観音立像は日高見神社に納られたとある。

 また、旧牡鹿町の町史上巻集落誌第3節給分浜には、鎌倉時代の弘安4年(1281年)に安藤(安東)太郎重光の一族が遠嶋(当時の牡鹿半島周辺)先達職の許状を受けたとあり、桃生・太田の日高見神社や月山社、愛宕、熊野、羽黒社の別当を安藤氏一族がつとめおり、安藤氏の遠嶋移転とともに十一面観音立像も遠嶋に移ったとする記述がある。さらに、かつて給分浜にあった後山寺の別当を務めていた遠藤土佐なる人物が、大永3年(1523年)に小淵・堂の窪に流れ着いた十一面観音像を拾い上げ、観音堂を建て替えて安置した。この観音像ははじめ田代島に流れ着いたが、島民が難を恐れて沖に流されたものだという。

 現在、給分浜後山には、かつて十一面観音立像が収められていた持福院大悲閣(通称・観音堂)が残っており、江戸時代初期から中期の建築様式持つとして県指定有形文化財になっている。十一面観音立像はその近く昭和32年(1957年)に建てられた収蔵庫で保管されている。観音堂隣には弘安8年の板碑も残っている。この地は、かつては「お城山」、「坊山」とも呼ばれ、四十八坊の後山寺があったという。大同元年(806年)観音堂創建とし記した棟札があったいう記録もあるそうだ。時代が大分合わないが、観音堂にはかなり古い仏像の腕だけが残されており、十一面観音立像の前にも仏像があった可能性がある。

観音堂㊤と弘安の碑

 十一面観音立像に水に浸った形跡はないらしく、漂着説はどうも疑わしい。鎌倉時代初期に安藤氏がこの地に持ち込んだというのが妥当なところか? 元々観音立像があった太田・長谷寺の開基者が作らせたとすると源頼朝になるのだろうが、言い伝えだけでは残念ながら信じ難い。ただ、言い伝えが残るほど大切にされてきたのだろう。

 十一面観音立像は普段公開されていないので、写真は撮れなかった。宮城県の紹介ページアドレスを記載しておく。(https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/bunkazai/02jyuuitimen.html)

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