2022年8月24日水曜日

一皇子伝説と2人の親王

 最近、1993年に石巻グランドホテルで開かれた石巻青年会議所主催の一皇子伝説シンポジウムを思い出した。後醍醐天皇の第三皇子(第一皇子とも)として生まれた大塔宮(おうとうのみや)・護良(もりよし、もりなが)親王が、鎌倉を秘かに脱出し石巻で余生を送ったとする伝説を県内外にアピールしようと、直木賞作家の井沢元彦さんを講師に招いて開催し、大盛況だったと記憶している。「一皇子伝説入門」という和綴じの立派な冊子が配布されことで素人でも分かりやすく、伝説の真偽はともかく歴史ロマンあふれる内容だった。井沢さんがこの伝説を題材にした小説を書いてくれるのではないかという淡い期待を抱いていたが、残念ながら実現しなかったようだ。ありがちな伝説なのかもしれないが、もう一度この伝説をおさらいしてみた。

一皇子神社

 護良親王の動きをウィキペディアを参考に眺めてみよう。親王は元弘の乱で鎌倉幕府打倒に功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任された。しかし、尊氏を疎む護良は、武士好きで足利尊氏を寵愛した父とはすれ違いが多く、将軍を解任され、やがて政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた直義の家臣・淵辺義博によって殺害された。

 ところが、石巻には次のような伝説が残されている。淵辺義博は宮を哀れみ、秘かに自領の相模に逃した。護良親王は日下、日野、平塚氏ら家臣とともに船に乗り込み牡鹿湊にたどり着き、ここで隠遁生活を続けたというのだ。(淵辺義博は主君の命に背いたことで、妻子に害が及ぶことを恐れ、境川かかる橋のたもとにあった榎の下で別れを告げたという伝説もある)

 一皇子伝説とい言われるように、石巻市湊地区には、護良親王を祀る一皇子神社あり、その社の裏には墓と呼ばれる遺跡もある。また、護良親王一行が、海を渡って石巻を目指す途中、嵐に巻き込まれて難破しかかった際、熱田神宮に祈ったところ暴風雨がおさまったことから、石巻に到着後、感謝を込めて建立したと言われる熱田神社が湊にある。護良親王と共に石巻へやってきた日下、日野、平塚、福原、遠山、志摩、岡本、淵辺の8人の家臣たちを祀った朝臣の宮もあるのだ。


熱田神社㊤と朝臣の宮㊦

 このほかにも、石巻市吉野町の日輪山多福院には、護良親王の陣中守本尊だとして秘仏とされる木造の大日如来像があり、鎌倉時代もしくは南北朝期の作と認めらえれている。この寺には天台宗日輪寺時代に日野、日下両氏らによって建立された後醍醐天皇供養碑「吉野先帝御菩提碑」もあることも周知の通りだ。

 当時、石巻に城を構えていた葛西氏六代当主の清貞は、南朝方の有力武士で、護良親王を迎え入れるに相応しい人物。湊地区には吉野町、御所入、御所浦、御隠里、一条、二条などの地名が残っており、清貞が護良親王のための御所を造営したと考えてもおかしくない。

 ところが、石巻市史(1956年刊)や宮城県史(1957年刊)では、一皇子神社は多賀城に下向したことがある後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりよし)親王に関係するものだとする。

 義良親王は元弘3年/正慶2年(1333年)、瓦解した鎌倉幕府の北条残党追討と東国武士まとめるため北畠親房と親房の長男である北畠顕家らとともに陸奥国の国府兼鎮守府の多賀城へと向かう。多賀城では朝廷に味方する武将を束ね、陸奥将軍府(東北将軍府)を創設した。奥羽将軍府は東北地方および関東地方の北部三ヶ国(下野国・上野国・常陸国)を含んでいた小朝廷だという。

 足利尊氏の離反によって後醍醐天皇は京都を追われ、吉野山に逃れると義良親王は北畠親房、顕家親子や陸奥将軍府の武将たちとともに足利尊氏を追討するため多賀城を出発。京都方面へ軍を進め、足利尊氏軍を破り、尊氏を九州へ敗走させた。足利尊氏・直義兄弟は九州で態勢を立て直して再び京都方面へ攻め上り、湊川の戦いで南朝の楠木正成、新田義貞を破って京都を奪い取ると後醍醐天皇に廃された光厳天皇の弟である持明院統の光明天皇を擁立し北朝を樹立した。

 延元2年(1337年)、主力軍が不在となっていた多賀城の陸奥将軍府は北朝軍の攻撃をうけ危険な状態となったため伊達行朝の領地内にある福島県霊山に遷した。同年12月、陸奥将軍府軍(南朝軍)は北朝軍を破って鎌倉を奪還。さらに西進し美濃国青野原の戦いで足利方を破り、伊勢・伊賀方面に転進したあと後醍醐天皇のいる大和の吉野行宮に入った。

 そうしたなか延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され室町幕府が成立した。同年、石津の戦い(和泉国堺浦石津、現在の大阪府堺市一帯)に敗れた北畠顕家が戦死。さらに新田義貞も越前国藤島(福井市)で北朝軍に敗れ、亡くなった。義良親王は、伊勢国大湊から三たび陸奥国を目指したが、途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着した。延元4年/暦応2年(1339年)3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、間もなく皇太子となった。8月15日、義良皇太子は後醍醐天皇の譲位を受け、第97代,後村上天皇として即位した。

 このように義良親王は、護良親王よりも東北とかかわりが深く、葛西清貞は護良親王ではなく義良親王のために御所を築いたと考えた方が自然だというわけだ。ただ、3度目の陸奥入りを果たせなかった義良親王のために一皇子神社造営するとも思えない。つまらないかもしれないが護良親王の形見を手にした家臣たちが再起を目指して陸奥に逃れ、牡鹿湊に護良親王をしのぶ社を建立したのではないかと思えてくる。

 「一皇子伝説入門」には、日野氏や平塚氏ら家臣たちの子孫に伝わる品々や言い伝えを紹介しているし、本庄市に伝わる護良親王伝説も載っているので興味のある方は石巻市図書館にあるので読んでもらいたい。 


0 件のコメント:

コメントを投稿