2022年8月3日水曜日

田道将軍終焉の地・伊寺水門

  「田道将軍」という人物をご存じだろうか。石巻の人なら名前だけは聞いたことがあるのではないだろうか。古墳時代の英雄ともいうべき武人・上毛野田道(かみつけののたじ)のことで、石巻市には田道将軍をまつる「田道神社」が田道町1丁目ある。羽黒山鳥屋神社や禅昌寺などにも田道将軍にまつわる伝説が残されており、日本書紀に記載されている田道将軍終焉の地とする伊峙(寺)水門(いじのみと、いしのみなと)が石巻であるかは確定されていないが、有力候補地になっている。

田道町1丁目にある田道陣社

 日本書紀(巻11)によれば、仁徳53年(365年)に新羅が朝貢を怠ったため、田道の兄・竹葉瀬を詰問使として遣わし、続いて田道が兵を率い新羅の兵を撃破した。その時、四つの邑の住民を捕虜とし連れ帰った。

 仁徳55年(367年)、蝦夷が反乱を起すと田道が遣わされるが蝦夷の毒矢に倒れ伊峙水門で戦死した。従者は田道が手に巻いていた遺品の玉を妻に与えた。妻は悲しみ首をくくって亡くなった。その後に蝦夷が田道の墓を掘り起こすと、その中から大蛇が現れ次々とかみ付きほとんどの者が死亡したという。

 東北で活躍した田道は、次第に神格化し石巻市の田道神社のほか、青森県平川市猿賀と秋田県鹿角市十和田錦木にある猿賀神社、札幌市豊平区の豊平神社(とよひらじんじゃ)は、札幌市厚別区の信濃神社が田道を祀っており、田道伝説が残っている。明治6年に発行された旧国立銀行券1円に軍神・田道と兵船が描かれたここで、全国に知られることになった。

 伊峙水門は陸奥国石巻ほか、上総国夷灊(いしみ)郡(旧千葉県夷隅郡)と常陸国茨城郡夷針郷(茨城県茨城町)、秋田県鹿角市十和田錦木などの候補地があり、確定されていない。

 石巻市には田道神社のほか、いくつかの伝説が残されている。

 石巻市羽黒町1丁目の羽黒山鳥屋神社もその一つ。鳥屋神社御由緒によると「鳥屋神社は延喜式に収められている牡鹿郡十座の一社。仁徳天皇55年東夷御征討のみぎり、伊勢神宮内宮末社猿田彦大神に御勅願あり、 無事、東奥伊寺之水門鳥屋岬の津に着船し、官軍、数々利あり、因って当地に創祀したという。 後、文治2年(1186年)藤原秀衡が羽州羽黒山より 分霊し鳥屋神社に合祀した」と記している。山下町1丁目にある鳥屋崎神社(鳥屋神社とも)は当社の奥宮であるという。


羽黒山鳥屋神社㊤と鳥屋崎陣社㊦

 鳥屋崎神社のすぐそばにある桂林山禅昌寺(石巻市山下町1丁目)も田道将軍ゆかりの寺として知られている。


田道将軍の伝説が残されている禅昌寺

 寺伝によれば、田道将軍の従者であった和恵と権三が、田道将軍の墓の 傍に庵を建てたのが始まりで、のち慈覚大師がその庵を天台宗全正寺と改めたといわれている。その後、建長7年(1255年)執権北条時頼の時代、鎌倉建長寺の末寺として大覚禅師開基、古澗和尚が中興開山、寛永10年(1633年)松島瑞巌寺の雲居禅師によって桂林山禅昌寺と改められ、京都花園の大本山妙心寺の末寺となって現在に至っている。同寺には、享和元年(1801年)に発見された「霊蛇田道古墳」と刻まれた石碑が保管されている。                   

 上毛野氏は、のちの上野(こうずけ、現在の群馬県)を拠点とする豪族とみられ、東国支配と蝦夷討伐に大きな役割を担ったようだ。群馬県には数多くの大型古墳が残されおり、その力の大きさがを伺わせる。蝦夷討伐中に亡くなった田道将軍の墓を名取市の雷神山古墳とする研究者もいるようだ。                                 


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