2022年6月14日火曜日

五松山洞窟遺跡と古代石巻

  石巻市湊地区にある五松山洞窟遺跡は1982(昭和57)年10月21日に発見された、弥生時代と古墳時代の遺構を併せ持つ遺跡だ。五松山がけ崩れ防止対策工事中に洞窟が出現し、その中から人骨が発見されたため、ちょっとした騒ぎになった。地元新聞に掲載されたときは「工事現場から人骨」という第一報だけだったので事件かと思ったが、すぐに遺跡だと分かったのでほっと一息。そのためか遺跡そのものにも関心が集まったようだ。特に注目されるのは、6~7世紀とみられる19体の人骨と副葬品だ。


 石巻地方には、古墳時代に代表される前方後円墳など大規模な古墳が残念ながら見つかっていない。東松島市大曲の五十鈴神社古墳などいくつかの円墳や移民たちの横穴墓、蝦夷たちの末期古墳があるくらい。それでも、田道町遺跡、清水尻遺跡、西三軒屋遺跡など古墳時代の遺跡は数多い。蝦夷対策として関東からの移民政策が進み、蝦夷との敵対するだけでなく地元民との融和政策もあったと思われる。奈良時代になって律令政府により多賀城や牡鹿柵、桃生城などが創建され、本格的な陸奥支配が始まるが、その前から畿内と石巻地方の関わり合いは深かったということだろう。

 五松山洞窟遺跡には19体の人骨が見つかっている。成人14、青年2、少年1、幼年2で家族墓とみられている。金銅荘圭頭大刀、衝角付冑、鉄鏃、骨角製弓装具など多数の武器武具類が伴っているのが特徴だ。これら副葬品は関東地区の大型前方後円墳で発見されるものが多いことから、石巻地方の有力豪族の墓だと考えられている。

 人骨のうち比較的保存状態がいい頭蓋のほどんどは関東地方の特徴に近いが、2体だけはアイヌ的な特徴を持つらしい。移民たちと歩調を合わせた蝦夷たちの存在、さらに親密な関係をも想像できる。これら人骨は自然落石した角石の上に置かれた状態で埋葬されたが、何らかの理由で集積され無造作に分割して2次的に改葬された可能性が高い。高塚古墳という畿内的な墓制を導入せず、洞窟埋葬としたところにこの地方の支配者としての特殊性があるという。

 五松山洞窟遺跡の調査に当たった三宅宗議氏は、石巻地方研究第4号(1999年、ヤマト屋書店)「古代石巻の王たち」の中で「五松山の洞窟墓は、六世紀末から七世紀前半ごろまでの王とその一族の墓であり、その墓制、葬法、人骨、副葬品等のありようは、海岸・島嶼の王権の性格と構造を解くうえで重要な問題を提起している、しかし、この地域王が支配したと考えられる海岸・島嶼のムラはどこにどのように存在していたのか、その肝心のところがまったくわかっていない」としており、石巻地方の古代解明はまだまだこれからのようだ。

 ちなみに、弥生時代の遺構は焼土や灰層、炉、木炭辺などの火を利用した痕跡のほか、わずかながら土器や鉄鏃などがみられる。この洞窟を漁労などの作業場として利用したものとみられている。

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