奈良時代初期の地方役所「牡鹿郡家(おしがぐうけ)」あるいは「続日本紀」にある蝦夷と対峙する城柵「牡鹿柵(おしかのさく)」と考えられる赤井官衙(かんが)遺跡と矢本横穴からなる「赤井官衙遺跡群」が、2021年3月26日に国の史跡指定を受けた。同年6月に記念講演会を開き、利活用に意欲を見せた東松島市の今後の施策に期待したい。陸奥統治の拠点になった多賀城。ほぼ同時期に造営された牡鹿柵は蝦夷との最前線基地になった。牡鹿柵を治めた丸子氏(のちの牡鹿連、道嶋氏)は、牡鹿郡にとどまらず伊治城の造成や蝦夷征討にも活躍する豪族となった。特に道嶋宿禰嶋足は中央政府に出仕し、貴族にまで上り詰めた特別な存在だ。地方出身ならが傑出した武人・道嶋宿禰嶋足ってどんな人だったのだろうか?
古代律令国家は7世紀半ばから9世紀初めまで、東北の蝦夷の土地に対する公民制支配拡大と蝦夷の服属を実現するため、境界領域に城柵を築き、その周辺に冊戸と呼ばれる移民を移住させ、土地の開発と村づくりにあたらせた。710~720年代に大崎地方から牡鹿半島にかけて牡鹿郡を含む「黒川以北十郡」が成立。10郡支配の拠点として牡鹿柵など「天平五柵」が置かれた。その政策と呼応して神亀元(724)年に多賀城が創建され、国府が郡山遺跡から移された。
これらの政策は蝦夷の生活を脅かすことになり、たびたび反乱を起こし政府軍との戦闘を繰り返した。聖武天皇は天然痘の大流行をきっかけに領域拡大政策を中止し、仏による救済を志すようになったため蝦夷の反乱も一旦収まった。ところが、聖武天皇崩御直後の天平宝字元(757)年、藤原仲麻呂は領域拡大政策を復活し、桃生城と雄勝城の造営を決定する。これが後に東北を長い戦火へと巻き込むきっかけとなった。
赤井官衙遺跡は標高2m前後の赤井地区堤上にあり、東西1.7km、南北1.0kmの広さがある。1986年から発掘調査が行われ、これまで約30,000㎡が調査された。木材塀や溝で厳重に囲まれた倉庫地区、居宅が立ち並ぶ2か所の館院地区、儀礼の場とみられる南方院、材木塀と大溝が続く外郭施設などが確認されているほか、「舎人」「牡舎人」と刻書された土器や瓦、鉄製品などが発掘されている。
矢本横穴は矢本西部の丘陵東斜面1.5kmにわたって築かれた墳墓で最初は1968、1969年に発掘調査が行われた。その後、調査が中断されていたが、宮城北部地震と東日本大震災で斜面が崩れたため災害復旧工事に伴い、約90基の横穴墓が調査された。上総国(千葉県)の横穴墓と同じ形態で、人骨や金銅装圭頭大刀(こんどうそうけいとうたち)、革帯(かたい)、「大舎人」と墨書された須恵器などの遺物が出土しており牡鹿柵に勤めた役人らの墓と考えられている。
牡鹿柵を治めた丸子氏・道嶋氏の一族は、かつて蝦夷説と非蝦夷説の対立があったようだが、矢本横穴の発掘が進んだこともあって現在では非蝦夷で上総からの移民だとみられている。丸子氏の移住は大化の改新(645年)後に始まる中央政府による陸奥国への計画的な移民政策の一環として行われたとみられ、矢本横穴の埋設物などからも推測できるという。
丸子氏は牡鹿地方の移民集団の首長として在地支配する一方、中央政府の蝦夷支配も担っていった。神亀元(724)年の海道蝦夷反乱では、郡領職にあっと思われる丸子大国が活躍しており、神亀2年に勲六等に叙され、田二町が賜与された。天平勝宝5(753)年6月に外正六位下丸子牛麻呂、正七位上丸子豊嶋ら24人に牡鹿連の姓を賜ったほか、同年8月には大初位下丸子嶋足も牡鹿連の姓を賜った。これが嶋足の文献初登場となる。大初位下という位階から嶋足は上京して中央官人になっており、しかもすでに何年か勤務していたと考えられてる。「続日本紀」の中に嶋足について「体貌雄壮にして志気驍武、専ら馳射を善くす(体形、顔かたちは雄壮、勇猛果敢な性格で馬上から弓を射ることが得意であった)」とあり、優れた武人として一目置かれていた。
嶋足の異例の出世を決定ずけたのが天平宝字8(764)年の藤原仲麻呂の乱での武功で、七位上から従四位下に躍進し、牡鹿宿禰を賜姓されたほか授刀少将になった。さらに、相模守をも兼務することになり大出世を遂げる。翌年の天平神護(765)元年には勲二等を授かり、近衛員外中将に昇進。この年に嶋足と在地の牡鹿氏が道嶋宿禰の姓を賜与されたとみられる。嶋足はこの後、陸奥大国造となり都で絶大な権威をつかみ、それを背景に在地の道嶋氏も活躍の場を増やし、牡鹿郡外でも力を発揮していく。
延暦2(783)年に嶋足が死去。これ以後、都の道嶋氏と牡鹿の道嶋氏が疎遠となり、道嶋氏衰退の一歩となったようだ。延暦23(804)年に坂上田村麻呂が征夷将軍に任じられた際に道嶋御盾は副将軍に、大同3(804)年には鎮守副将軍に任じられるなど大きな勢力を保持していたが、大規模な征夷がなくなると道嶋氏の姿は見えなくなっていった。
移民集団のリーダーだった道嶋氏だが、陸奥を代表する豪族にのし上がったのは、道嶋嶋足の力が大きかったように思われる。国書の「続日本紀」に記録されるくらいのだから、馬と弓の名手であり優れた武力の持ち主だったのはもちろんだが、貴族たちからも頼られるカリスマ性を持った人物なのだろう。とても興味ぶかい。
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