石巻市湊・一皇子神社の護良親王伝説は、比較的有名な話だが、針岡の足利伝説については地元でも知らない人の方が多いのではないだろうか? 石巻市針岡の富士沼ほとりにある松山寺(しょうざんじ)に伝わる伝説で、室町幕府に謀反を起こした鎌倉公方・足利持氏の事件、いわゆる永享の乱(1438年)に関する伝説だ。持氏の嫡男・義久は持氏とともに自害したとされているが、実は針岡の地に落ち延び松山寺を開基したとされる。岳仙家と呼ばれるこの開基家には、古文書が残されており、こうした内容が記述されているという。
針岡の足利伝説については、郷土史家の紫桃正隆氏著「石巻地方の史談と遺聞 大河の四季」(1984年刊)を読んで知った。「富士沼奥地に亡命した関東公方の御曹司 足利義久は生きていた」と出して、伝説の内容を解説している。松山寺には義久の墓があると書かれているのだが、2度ほど訪ねて探し回ったけれど見つけることができなかった。「北上川下流域のいしぶみ」(河北地区教委刊)にも拓本が掲載されているので、どこかにはあるはず。また探してみたい。
この伝説を語るうえで欠かせないのが永享の乱。室町幕府は関東を統治するため鎌倉府を設置し、足利氏出身の鎌倉公方とこれを補佐する上杉氏の関東管領が指導的立場にあった。鎌倉府の実権をめぐって鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉氏憲が対立。上杉氏憲は関東管領を更迭され、応永23(1416)年に持氏に対して反乱を起こした。乱は鎌倉公方派が幕府の協力を受けて鎮圧するのだが、乱後に持氏は残党狩りと称して京都扶持衆の宇都宮持綱らを粛清、幕府寄りの佐竹氏を討伐するなどし幕府と鎌倉府が対立関係となった。5代将軍足利義量の急死に伴う後継問題も絡み混乱を深めた。さらに、持氏は新たに関東管領になった上杉憲実とも対立し、戦闘態勢へと突き進む。幕府は上杉の救援要請を受けて、討伐軍を編成。持氏軍を打ち破っていく。持氏は幽閉され後に自害し、11歳だった嫡男の義久も鎌倉の報国寺で自害した。
ところが、岳仙家の古文書によると、義久は2人の付き人に守られて脱出。山伏修験者の姿になり岳仙坊と名乗って針岡に逃れた。羽黒山系の清水寺と称していた松山寺は、義久が開基者となって寺名を改めたとされる。
松山寺の近くに針岡館山館跡という古城址がある。「葛西真記録」では平塚将監の城という。また松山寺には平塚氏は田道将軍の家来で、針岡開拓の恩人と伝わっている。紫桃氏は著書の中で「将軍は古代の田道将軍ではなく足利将軍家の意味であろう。そして相模国平塚(平塚市)の出自の者であったろう」と推測。足利義久に追従した家臣の一人ではなかったかとみる。
にわかには信じがたい話ではあるが、若い義久を何とか助けたいという思いが伝わってくる。この伝説の真偽だけでなく、なぜ伝説が針岡の地に生まれたのか興味は尽きない。
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