2022年4月24日日曜日

海蔵庵板碑群と「よりともさま」

  石巻市尾崎(おのさき)の長面浦に面する曹洞宗寺院・海蔵庵。その裏山斜面を中心に数多くの板碑が見つかっている。1998年の県教委調査で、新たに87基の板碑を発見、従来報告されていた50基を含めると137基にもなる。これらは鎌倉時代後期の弘安10(1287)年から室町時代前期の文安4(1447)年までにつくられた中世板碑で、石組で囲まれた板碑が複数あることが特徴だ。「よりともさま」と呼ばれる板碑の被供養者「玄龍」とは何者か?葛西氏や山内首藤氏との関係はあるのか?-など興味は尽きない。

「よりともさま」と呼ばれる板碑を中心に多くの板碑が配置されている

 震災遺構大川小学校を横目に長面浦方向へ進み、長面浦と追波湾の結節点に架かる橋を渡って右折すると間もなく海蔵庵が見えてくる。東日本大震災で大きな被害を受けた地域で、震災前の風景と大きく変わってしまった。


海蔵庵(上)と裏山からた望む長面浦

 「北上川下流のいしぶみ」(河北地区教育委員会刊)によると、海蔵庵は元亀3(1572)年の開山だが、それ以前にも洞叟という僧が開山した海蔵□(不明、寺か)という天台宗の寺院あった。延元元(1336)年から貞和4(1348)年までの開山と考えられている。多福院を含め石巻市湊地区には葛西太守とみられる供養碑が数基(蓮阿、蓮昇、昭蓮、安養寺殿)あり、いずれも大禅定門の法名を持つ。大禅定門は太守以外に例を見ない。ところが、海蔵庵で義有大禅定門の法名を持つ嘉慶3(1389)年の碑が発見され、葛西太守のものに比定される。すなわち、牡鹿湊のほかにも葛西太守が居住した可能性があるとしている。

 尾崎地区は遠島五十四浜のひとつで鎌倉時代は北条氏の直轄領であったと考えられており、南北朝あたりから葛西氏の支配下に入ったとみられる。海蔵庵で最古で最も豪華な「よりともさま」と呼ばれる板碑の被供養者「玄龍」の一族が長面浦一円を支配し、板碑を建造していったと思われる。海蔵庵板碑群が「よりともさま」の板碑を中心に配置されていることからも「玄龍」は、北条氏の代官というよりは葛西氏の有力者と考えるのが自然だろう。牡鹿湊と追波湾口という航路の拠点を葛西氏が押さえたのかもしれない。

 海蔵庵は江戸時代の宝暦年間(1751~1764)に火災に見舞われたため縁起・寺暦・過去帳等は消失して不明。「玄龍」の供養碑がなぜ「よりともさま」と呼ばれるようになったのだろうか。奥州藤原氏討伐に貢献した頼朝軍の高級武士ということなのか。それならば、「かさいさま」とか「すどうさま」とかでいいような気もする。年代が合わないので頼朝本人の供養碑でないようだし、頼朝に近い人物なのだろうか。

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