石巻地方に深谷という地名があったことを知っているひとはどれだけいるだろうか。冬の特産品として有名な「深谷からし巻き」、かつて広渕にあった病院「公立深谷病院」(現石巻ロイヤル病院)などの名前で知っている人は多いかもしれない。深谷は旧矢本町、旧鳴瀬町、旧河南町にまたがる地域で、12世紀初めに湿地などを開発してできた私領ひとつ。保(ほう)と呼ばれ、宮城県内では深谷のほか高城、大谷、長世、小田、柳戸、金原の七か所に保あったとされる。この深谷保を鎌倉時代から戦国時代まで治めたのが鎌倉武士を祖とする長江氏で、その居城は小野城だった。
東松島市小野地区の旧小野小学校裏から旧鳴瀬第二中学校裏に至る丘陵地は、御館山と呼ばれ城跡だったことが知られている。梅ヶ森館、桜ヶ森館、松ヶ森館の三つの館からなり、そのうち梅ヶ森館跡は御館山公園として整備されている。三つの館がどのように使われていたのかはよく分からないが、長江氏の居城であったことには違いない。
源義家に従軍した後三年の役で名をはせた鎌倉権五郎景政(景正)を祖とする相模の武士・長江氏。源頼朝の挙兵に応じた長江義景が奥州藤原氏討伐でも功を上げ、深谷保を賜った。
長江義景は奥州合戦の後、本領地の相模に戻り、御家人として活躍しているので、深谷には長江の一族を派遣して治めたとみられる。磐井郡奈良坂(一関市花泉町)に居住した奈良坂氏の編纂による家系図「奈良坂系図」には、文治元年(1185)に生まれた葛西清重の三男清員が深谷庄小野城主長江四郎義員の嗣子となった-と記されている。清重の子を養嗣子に迎えた長江四郎義員は、四郎とあることから義景の四弟の可能性もあり、兄義景の代官として奥州深谷に下ったのかも知れないが確証できる史料はない。
長江氏が深谷の地で活動の足跡を残しているのが板碑の存在だ。鎌倉時代中期から末期にかけて多数の板碑が建立されている。新山神社、澗洞院、清泰寺周辺と大塩地区に集中し、大型のものが建てられた。澗洞院ある天蓋,蓮台の荘厳さを誇る建治元年(1275)の阿弥陀三尊種子板碑、緑ヶ丘の公園内にある阿弥陀三尊図像を荘厳に描いた弘安2年(1279)の阿弥陀三尊来迎図板碑など芸術性に優れた板碑も多い。長江氏の家臣・夷塚氏が宝暦(1751~1764年)ごろ、夷塚四郎兵衛の覚書と当時の古老の伝聞を基にしてまとめた夷塚文書にあるように、長江氏の深谷支配は大塩地区から始まり、その後に築城した小野城に移ったのだろう。
長江家最後の当主になった播磨守勝景(月鑑斎)は、ともに弟で矢本城主・矢本筑前守景重、浅井の三分一所城主・三分一所家景とともに領地経営に努めたが、矢本筑前と争いになり滅ぼしてしまう。争いの原因は不明。郷土史家の紫桃正隆氏は、葛西、伊達の両大名に介入されたことが大きな要因になったと推測している。
長江月鑑斎は伊達傘下に入り、武人として活躍。しかし、独立領主としての気骨は忘れていなかった。米沢から岩出山に居城を移したとき伊達政宗は、諸将から祝いを受けたが、長江月鑑斎と黒川月舟斎の姿がないことに気付き、二人を捕らえ幽閉した。月舟斎は婿の留守政景の助命嘆願によって一命を助けられたが、月鑑斎は秋保氏に預けられてしまう。敵対する最上氏に内通した嫌疑もあり政宗の命を受けた秋保氏によって殺害された。天正19年(1519)、鎌倉時代から続いた深谷長江氏の歴史の幕を閉じた。弟の三分一所氏は仙台藩士として存続。滅亡した矢本氏の一族は帰農して有力地主になったようだ。有名な矢本家重層門は、天明5年(1785)に建てられた入母屋造りの風格ある建築物で、登米伊達氏が仙台へ参勤する際の宿陣として作られた。この矢本家が長江矢本氏の一族とみられている。
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