石巻市二俣地区にある大森城跡は、二俣小学校裏から谷津地区に至る東西約600m、南北約250mにも及ぶ大規模な中世山城で、鎌倉時代に桃生郡の領主となった山内首藤氏の居城とされる(紫桃正隆著、史料仙台領内古城館・第2巻)。しかし、山内首藤氏が大森城に居住した形跡が薄く、早くから七尾城を拠点にしていた可能性もあり、今ひとつはっきりしない。大森城址を散策しようと思ったが、杉木や雑木に阻まれ思うように歩けなかった。中世山城の特色をよく残しているようなので、散策できるようにしてくれるとありがたいのだが・・・。
県道石巻河北線の大森バス停近くに、大森城址の案内板と標柱(折れて横たわっている)あり、そこから西館と呼ばれていたという二の丸に行くことができる。さらに本丸を目指して北側を回って東へと登って行くのだが、杉林や雑木で思うように進めない。どこまで進んだか分からなくなってしまい断念した。昭和の時代までは各曲輪が畑になっていて容易に登れたようだが、今はほとんど人の手が入っていない。
二の丸から本丸を目指すがどう進めばいいか分からなくなる
大森城主はだれだったのか。古文書には次のような記述がある。石巻市鹿又の佐藤家文書には桃生山内氏について「文治五年軍功ニテ相州ヨリ下ラレ桃生郡十万石ヲ賜り大森城ヘ居城ヲ構エ永く居住ス」とあり、塩釜首藤氏系譜の代々系脈図では、第一次永正合戦(永正8年)で大森城が葛西氏に攻撃されているような記述がある。「河北町誌」にもあるように「三百二十余年、大森城あるいは七尾城を居城として、桃生郡北方に一族の繁栄をみた豪族」が一般論になっている。
「桃生山内首藤氏と板碑」(1999年、桃生町教育委員会発行)は、塩釜首藤氏系譜に「文治五年七月経俊、頼朝公ノ軍ニ従イ功アリ、時ニ経俊桃生廿四郷拝領ス(略)、此の後経俊桃生郡永井城を築ク、後マタ中島村七尾山ノ地ヲ見タテ築キテ本城トナス」と伝え、ここには大森城の名が出てこないし、同系譜に収められた永正合戦の記述でも堅城であるはずの大森城の攻防が書かれていないなど疑問を投げかけている。
さらに、大森城周辺地域の板碑などから三輪田、福地地区の所領者や桃生郡と牡鹿郡の郡境などを考察し、大森城主を推理するという興味深い内容を含んでいるので、簡単に紹介したい。
石巻市三輪田の上品山高徳寺に県内最古・文応元(1260)年の記銘がある板碑が大切に保管されている。平朝臣資信の名が刻まれ、父の供養のために建立したものとみられる(為書きが欠損し正確に読み取れない)。また、高徳寺には平直重という武将が正中2(1325)年に建てた逆修(生前供養)塔やそれに関連するとみられる碑もある。このほか、石巻市北境の法華堂には平重命・義継父子の供養塔とみられる板碑あり、三輪田、福地、北境地区はかつて平の姓を持つ一族が支配していたと考えられる。
山内首藤氏は藤原姓であるため、桃生郡内でも三輪田、福地、北境地区一帯が山内首藤氏の所領である確率は極めて低くなる。平姓といえば葛西一族と考えるのが妥当なのだろう。福地には山内首藤氏の一族が領主として入っているが、葛西氏の家臣としてであり葛西家老を務めたこともある葛西重臣で、永正合戦には加わっていない。舟運の拠点として牡鹿湊を抑えた葛西氏が、もう一つの拠点追波口を抑えるのは必然であることも指摘している。このことから、当時の牡鹿と桃生の郡境は、北上川(追波川)に設定され、右岸は牡鹿郡とした。文禄2(1593)年、伊達氏の総検地で現在の郡境になったと推測している。
これらの条件からして、最もふさわしい大森城主は永正合戦の発端となった末永氏だとする。末永氏は葛西清重を祖とする葛西譜代の重臣で、永正合戦時の当主は末永能登守宗春、弟に末永筑後守がいた。伊達家から葛西当主として入った宗清を暗殺しようと企てた人物である。この時の末永氏の居城は登米・善王寺城(米山町)とされるが、葛西氏が登米郡を支配するようになったのは永正合戦後とみられるので、真偽は定かではない。永正合戦記や津谷村書出には「牡鹿末永」との記録されており、牡鹿郡内に居住していた可能性はある。大森城が牡鹿郡内だとすれば、末永氏の居城説もあり得るというわけだ。
末永氏は永正合戦後、葛西氏から養子を迎えた上で本吉・最知に移封されとされる。弟の筑後は葛西家臣の男沢氏に養子として入り、大森城主になったとする言い伝えがあるそうだが、本当なら面白い。ちなみに郷土史家で葛西研究者の佐藤正助氏は、著書「新編葛西400年史」で「登米氏とは末永氏ではなかったか」と推測している。登米氏は山内首藤氏と組して葛西氏に反旗を示した永正合戦の中心的な人物。関東御家人で山内首藤氏と親族関係にある小野寺氏が登米郡を拝領し、その庶系が下向して登米氏を名乗ったとするものもあるようだがどうなんだろうか?。登米小野寺氏は、葛西氏が石巻から登米寺池に居城を移した際に一関に移動したとみられている。
郷土史家の紫桃正隆氏は「私本 奥州葛西記」の中で、第1次永正合戦の籠城は大森城だとしている。大森城東側の谷津の地名の由来は降り注ぐほど矢が落ちた場所「矢落ち」が変じたとし、大森城の激戦の様子を示す逸話として紹介している。
「伊達家臣家譜」には、伊達輝宗、政宗に仕え相馬合戦や仙台築城などに活躍した後藤信康が天正年間にこの地を領したと書かれている。大森城に居城していたかどうかは分からない。
0 件のコメント:
コメントを投稿