2022年3月8日火曜日

葛西氏V.S山内首藤氏 永正合戦

  戦国時代中期、石巻地方でも大規模な戦が繰り広げられた。石巻城を拠点に宮城北東部、岩手南部を統べる葛西氏と桃生郡の山内首藤氏との戦いで、永正八(1511)年に始まったことから永正合戦と呼ばれる。この戦いで勝利した葛西氏は新たに桃生、登米の両郡を手中にし、奥州の大領主に成長した。この時の葛西当主は宗清。伊達氏当主成宗の次男で、先代葛西当主満重の娘と婚姻し、養子として葛西家に入ったとみられている。奥州で勢いを増す伊達家からの血の流入は葛西嫡流家を活性化させたが、新たな火種にもなった。


 江戸時代まとめられた塩釜首藤氏系譜に、この合戦を伝える記述ある。塩釜首藤氏系譜は、桃生山内首藤氏の末裔とする首藤頼広が貞享3(1686)年にまとめた首藤氏系譜、代々系脈図などと頼広の息子の仙台藩士・知平が先祖の伝聞などを基にまとめた覚書、江戸時代初期に中島村杉屋敷に隠棲した首藤一族の末裔とみられる義兵衛知通の「桃生領主山内伝」などからなる。代々系脈図のなかに「永正合戦記」があり、永正年間に撰した古記を天文2(1533)年に書写したものを底本にしたとされ、その内容は比較的評価されている。永正合戦記については、「桃生・山内首藤と板碑」(1999年、桃生町教育委員会刊)、「私本 奥州葛西記」(1998年、紫桃正隆著)に詳しいので、これを参考にまとめてみた。

 それによると、当時は葛西嫡流系と庶流系の勢力争いが激しく、家臣たちが二手に分かれて闘争を繰り広げていた。劣勢を強いられていた嫡流系は、苦肉の策として伊達家に助力を要請(薄衣申状)。その結果、どうなったかは明らかになっていないが、騒動は沈静化したようで、その過程で宗清の葛西家入嗣が決まったものとみられる。伊達家の威光もあって葛西嫡流家の権威を取り戻したが、他家の流入に反発する家臣たちも少なくなかった。

 そんな折の明応8(1499)年10月、葛西家臣の末永能登守、末永筑後守兄弟は主君宗清の殺害を謀るが、未然に露顕。兄弟は剃髪して謝罪し辛うじて死罪を免れた。末永氏は葛西清重の三男を祖とする葛西重臣で、葛西一族の権力失墜、伊達家への隷属化を恐れた。命拾いした末永兄弟だが、反伊達の思いは断ち切れず、葛西氏と境界争いを続けていた隣国の山内首藤氏と接近していく。こうした状況に乗じて山内首藤氏は、深谷の長江氏、登米の登米氏らを招き集めて一揆契約を結び、反葛西体制を固めていった。

 葛西太守の宗清は永正8(1511)年8月4日、江刺、磐井、気仙、本吉など領内諸氏に出兵の命を下し、山内首藤氏の討伐へと乗り出した。葛西本体は、川沿いを直進し山内首藤を叩くことを避けた。牡鹿湊から遠島(牡鹿半島)を迂回して本吉郡の海岸(志津川水戸辺付近か)に上陸。本吉方面の軍勢とともに横山峠から柳津を経由して西進し、8月9日には合戦崎城(桃生町樫崎)を襲う。勢いに乗る葛西勢は合戦崎はじめ中津山、神取、飯野などの諸城を落としていった。8月19日、奥方の軍勢2千騎余が到着し柳津大田(場所不明)に陣を構える。江刺勢、薄衣や黄海など東山の諸将、鹿折、高田など気仙の軍勢が南下。留守勢、牡鹿勢2千騎を率いる宗清嫡男重清は南から諏訪森(不明)を抜け、大森に向かって柴垣(不明)に陣を布いた。9月1日、葛西全軍は山内首藤拠点の七尾城、中島城(紫桃氏は大森城に山内首藤氏がこもったとしている)を取り囲み持久戦に入る。これに対し、山内首藤の当主貞通の弟・江田七郎清通は、軽率百余をもって夜間ゲリラ戦を展開し敵を苦しめた。貞通は兵糧が尽きて兵卒の飢餓の姿を見るに忍びなく10月8日、葛西方に和議を申し出。桃生10郷を割譲し、麾下に入ることを条件に許される。貞通は嫡子千代丸(のちの知貞)に跡を譲り、弟江田七郎、叔父福地頼重にその補佐を託し、剃髪して高野山に移ったという。
中島城跡に建つ八雲神社
中島城跡から七尾城跡を望む

 翌年の永正9(1512)年7月、後見役の江田七を郎は内紛を続けている葛西陣営に乗じて、旧領を奪取しようと画策する。秘かに登米城主の登米太郎行賢と共謀し、樫崎、山田、飯野、牛田、鴇波ら親族・旧交の武将を集めて結束していった。同年7月9日、太田城ほか周辺諸城を攻め落とす。これに対し、葛西宗清は嫡子重清に桃生、登米の討伐を命じ、前回同様に牡鹿湊から船で本吉海岸に回り、登米に向けて進撃した。7月21日米谷の長谷に陣を構え、23日には良代(楼台)城が陥落。ここで登米行賢は戦いに利なしと決断し、重清の陣を訪れ降伏する。登米郡の諸城も次々と落ちていった。葛西勢は桃生郡へと攻め入り、牛田、樫崎城を落とすと桃生勢は七尾城に籠城。持久戦に入った。城中の兵の疲労の色が濃くなってきたころ、葛西方は富沢三郎らを城中に遣わし降伏をすすめる。千代若の七尾在城を認め、江田七郎ら幹部を排除することで和議が成立した。

 永正12(1514)年、千代若は元服して刑部丞知貞と名乗った。某日、葛西太守は登米行賢を先導者として大軍を率い、七尾城を急襲する。知貞は応戦の準備もないまま攻め込まれ、一族、重臣の多くが戦死、もしくは逃亡した。これで、桃生の城は全て葛西に落ち、知貞は根白石(仙台市泉区)あるいは相馬に出奔したと伝わっている。この戦いは登米行賢のざん言が基になったという。

 永正合戦の記録としては、代々系脈図のほか塩釜系譜に含まれる桃生領主山内伝のほか、山内首藤一族で永正合戦の後に浪人になり寺崎殿に庇護された人物が記した「永正の合戦記」(仮称)、永正の合戦記に酷似し書写されたものとみられる「永正年間戦乱記」がある。また、伊達家の正史「伊達正統世次考」にも記録がある。ただ、これらの記述は武将の名称などのほか戦闘そのものも異なるものが多く、真偽が定まらない。ただ、和歌山県新宮市の熊野速玉大社蔵の奉加帳に記載されている永正・大永ごろの葛西宗清、重清父子、有力武将たちの人名と花押が代々系脈図と一致していることから、その信憑性が高まった。



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