国道45号の石巻市二子地区付近から桃生方面へと向かい、三陸道の下をくぐりぬけ大谷地小学校前から田んぼの景色を眺めながら新田交流会館を目指す。新田交流会館向かいには桃生城の案内板があり、会館と案内板に挟まれた道を山側に向かって進む。途中、左折を示す矢印があるはずだったが風雨にさらされて読めなくなっていた。道路が途切れたところで畑の中に入って進む。林の中に入ったところに桃生城の説明板があった。律令国家体制の領域拡大を目指して天平宝字3(759)年末に桃生城が完成したとみられるが、14年後の宝亀5(774)年、海道蝦夷の攻撃を受けて焼失しまう。38年戦争始まりの地だと思うと感慨深いものがある。
桃生城の案内板と新田交流会館
ここを左折
畑の中を進み林に入るとすぐに説明版がある
桃生城の造営は、聖武天皇崩御直後の天平宝字元(757)年、藤原仲麻呂の領域拡大策復活によって雄勝城とともに決定。翌天平宝字2年、陸奥国の浮浪人、坂東諸国の騎兵や役夫を徴発して造営を開始した。天平宝字4(760)年正月、桃生城、雄勝城造営をの功により陸奥守の藤原朝猲(ふじわらのあさかり)らに位階を与えおり、前年末には完成したとみられる。この後、城の周辺地域には坂東などから柵戸と呼ばれる移民が送られ、土地開発や村づくりに当たった。これにより、牡鹿郡から桃生が分離され、桃生郡が誕生したことになる。
しかし、土地を奪われた蝦夷たちの抵抗が激しくなるのは必然で、宝亀5(774)年7月、蝦夷が蜂起し桃生城西郭から侵入して襲撃。城内の主要建物が焼失しているほか、桃生城の一郭とみられる新田東遺跡でも竪穴住居が火災で焼失しており、住居内には多数の生活用具が残されていた。これ以降、反乱は大規模化し、征討軍との間で38年にも及ぶ長期戦となった。
桃生城の規模は、新田東遺跡をを含め東西約1,100m、南北約800m。東側丘陵のほぼ中央に「政庁」、政庁から西側に続く丘陵に「実務官衙」、東側丘陵の東端に当たる新田東遺跡には「居住域」があったと考えられている。2021年11月3日に開館した「石巻市博物館」(マルホンまきあーとテラス内)に桃生城の模型が展示されているので、興味のある人はじっくりとみてほしい。
桃生城の復元模型
模型を製作するに当たって復元考察を担当したのが多賀城跡調査研究所の白崎啓介上席研究員(建築史)で、2021年11月20日、東北歴史博物館で開かれた多賀城講座で考察過程を説明した。発掘調査から柱間の寸法など建物の規模や構造がわかるそうで、それでもわからない部分は、現存する古代建築物、文献、古絵図などを手掛かりに考えたという。正殿や政庁南門はじめ外郭門、筑地塀、外郭土塁に至るまで丁寧に検証されている。
海道蝦夷と対峙する最前線基地。蝦夷にとっても中心地とみられる胆沢地方と海を結ぶ川の道の重要結節点だった。丘陵地に建つ荘厳な施設群と大勢の移民たちの姿に蝦夷たちは恐怖心を強め、生死を覚悟した戦いに挑んだに違いない。燃え落ちた桃生城は、二度と再建されることはなかった。
和泉沢古墳群
和泉沢古墳は、石巻市中島字和泉沢畑の丘陵南面に9世紀ごろに設営された末期古墳群だ。桃生城の東側約20㎞の位置にある。東西130m、南北90mの範囲に直径3~9mほどの小型石積み円墳約50基が分布する。市内最大級で近くには合戦谷古墳、桃生・山田古墳のほか、北上・月浜でも数基確認されている。1973年11月に県指定文化財となったが、以前から蕨手刀や勾玉などが出土しており、開墾などによって消失した墓もあるとみられている。北上川流域の特徴である石積みタイプの古墳で黒色土器などの遺物からみて蝦夷の墓と考えられ、この周辺が蝦夷の拠点になっていたのだろう。38年も続いた戦火の中で人々はどう暮らしていたのかと思うと、空恐ろしくなる。
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