2022年2月15日火曜日

桃生の山内首藤氏と七尾城

  NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に相模の有力武士として山内首藤経俊が登場している。経俊は源頼朝の奥州征伐に従い、戦後の軍功として桃生郡の地頭職を受けたとされる。山内首藤氏は、牡鹿湊を拠点していた葛西氏と戦って敗れるまで約300年もの間、桃生郡を治めたことになる。最初は代官による治世だったようだが、のちに山内首藤氏の庶系が入り、奥州の豪族として成長する。桃生・山内首藤氏の居城が石巻市中野にあった七尾城だ。

            北上川対岸から七尾城跡を望む

 萩(山口県)藩重臣の山内家に伝わる「山内首藤文書」によると、山内首藤氏は平安期の公卿・藤原姓師尹(もろただ)の流れ(藤原秀郷とする文書もある)で、経俊の父俊通の代に相模国山内荘(鎌倉市)を本拠として山内首藤と称した。源義朝に従って保元・平治の乱を戦うなど源氏譜代の郎党で、源氏主家の乳母を務める家柄だった。頼朝の乳母を務めた山内尼は経俊の母である。

 治承4年(1180年)8月、源頼朝の挙兵の呼び掛けに応じなかった経俊は、石橋山の戦いで平家方について戦った。このため、捕らえられ死罪になるところを母の山内尼の懇願によって助命され、御家人として頼朝に仕えることになった。

 承久の乱(1221年)で、経俊の孫のうち長子俊業(としなり)が京方についたため殺され、幕府側についた次子宗俊が父重俊の跡を継ぐ。この末裔が所領があった備後(広島県)に拠点を移し、江戸時代まで続いていく。一方、俊業の子の時業にも祖父重俊から所領の一部が渡ったとみられ、時業の娘・亀鶴(尼いくわん)に相模国早河庄、備後国地毗(じび)庄の一部所領とともに陸奥国桃生郡吉野村の地頭職を譲ることを認める関東下知状が残されている。これが、山内首藤氏が桃生郡の地頭職を得たとする根本史料にもなっている。

 亀鶴の子孫は、嫡流の備後系に吸収されるため、その庶流が桃生へ移ったものみられている。ただ、重俊には経道という三男がいて中務三郎と称した。この経道が桃生郡地頭職を受け継ぎ、桃生へ下向したとする研究者もいる。桃生・山内首藤氏の末裔がまとめたされる「塩釜首藤氏系譜」でも経道の名がみえる。

  また、「秋田藩家蔵文書」の「小泉文書」の中に八幡庄(仙台市、多賀城市)の境相論に、高泉太郎信幹とともに山内中務三郎経道が幕府の実検使として派遣す文永9年(1272年)の関東下知状がある。これに関して、「桃生・山内首藤氏と板碑」(1999年、桃生町教委発行)では、高泉は高清水の旧名で高泉太郎は高清水の地頭であった大掾(だいじょう)氏とみられ、これに対応する経道は八幡庄に近い桃生郡の地頭になっていた可能性が高いとしている。これに呼応するかのように、七尾城跡西麓には春彼岸初日に亡き母の極楽浄土を願う文永5年(1268年)の板碑が存在している。

 山内首藤氏が桃生郡に居住していた比較的確かな痕跡があるのは、七尾城跡の北側、石巻市中島の花輪山天星寺で、天星寺の開基者として首藤太郎左衛門頼道の位牌があり、「七尾舘主・花輪院殿大白道知大禅定門、文明八年(1476)正月廿日」と記されているそうだ。その子・義道に続くのが葛西氏と戦い敗れた貞道、知貞の父子となる。

              七尾城跡本丸入口付近にある標柱と案内板

 桃生・山内首藤氏は、はじめ永井城(桃生町永井)に居を構え、のちに七尾城(大森城を経て七尾城とする文書もある)に移った。飯野川から北上地区に向かう県道沿いにある七尾城跡は高さ40メートル、東西300メートル、南北200メートルのほどの山の背に点々と本丸、二の丸、馬場などを備えている。今は、スギ林や雑木が生い茂り人を寄せ付けない状態になっているが、大門跡や橋跡などが確認できるという。

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