2022年2月5日土曜日

専称廃寺跡の謎

 石巻市湊鹿妻山の菅原神社境内に専称廃寺跡板碑群がある。鹿妻小学校の北側で少々分かりにくいのだが、住宅地を抜けた山裾に神社を発見。神社裏側に37基の板碑がまとまって保存されている。特に仏や菩薩の称号を刻む名号板碑が32基もあるのが特徴だ。かつてここに時宗寺院が存在し、葛西氏とともに登米に移転したとみられる。ところが、登米の専称寺や時宗本山の清浄光寺(藤沢市)に石巻・専称寺の記録がなく、葛西氏の菩提寺説も今のところ否定的になっている。


 「石巻市史」第2巻(1956年刊)によれば、鹿妻山専称寺は時宗の藤沢山清浄光寺の末寺で遊行5世安国上人巡行の折、葛西氏先祖の菩提のために建立した。しかも、安国上人は葛西氏の出身だという。これは、仙台葛西氏の末裔が所持していた江戸時代の文献によるもので、今日では信ぴょう性に欠けると判断されている。


 専称廃寺跡板碑群の中で、葛西氏に関係するものとして「至徳元年九月十日 蓮阿弥陀仏 五七日」と「応永三年九月六日 蓮阿弥陀仏」の2基がある。蓮阿は葛西七代良清の法名で、良清の供養碑とも考えられる。しかし、良清の没年が年代的に合わないので、これも決め手にはならないという。「石巻の歴史」第8巻(1992年刊)では「専称寺廃寺と葛西氏とのかかわりは一応否定されてはいるが、多数の名号板碑の存在を手掛かりにして、石巻市における時宗の布教と葛西氏とのかかわりは今後に残された課題である」としている。石巻市桃生町牛田の五十鈴神社境内の別室に安置してある「蓮阿弥陀仏」の板碑と関連があるのかどかも気になる。

 専称廃寺には、草書体名号板碑があることからも時宗の寺院だったことは確実で開基には武士がかかわっていたに違いない。元弘元年(1331)と建武4年(1337)の二つの年号ある板碑が最も古く、開基は遅くても1337年以前と推察できる。鎌倉時代末期から南北朝時代初期という葛西氏の奥州下向時期と同じくするのだ。

 このほか、文鬼元年という朝廷の定めた公年号でないものがある。私年号と呼ばれるもので、これが何を意味するのか分からない。仮に文亀の間違いとすると1501年となり、板碑群の下限となる永享2年(1430)と70年もの開きがあって考えにくい。

 葛西氏との関係はあるのか?闇は深まるばかりだ。 

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