2022年2月3日木曜日

多福院の板碑群と葛西氏

  石巻市吉野町1丁目の日輪山多福院には、93基(「石巻の歴史」による。平成30年、石巻市教委が設置した現地案内板には88基)の中世板碑が確認されている。後醍醐天皇を供養する「吉野先帝御菩提碑」は特に珍しく有名だ。板碑の中には、葛西氏と関係深いものが複数あり貴重な葛西史料にもなっている。隣には伊達家臣・笹町氏が創建した慈恩院、護良親王伝説が残る一皇子神社も近く、歴史散歩には絶好のスポットだ。


 多福院は天台宗の月光山日輪寺(創建年不詳)の跡に、戦国時代の1570(元亀元)年に葛西家臣だった笹町氏によって開山されたとする曹洞宗の寺院で、板碑は山門(かやぶき屋根の山門は東日本大震災で消失)脇や本堂脇、本堂後ろなどに分散されてはいるが、その数に圧倒される。1975(昭和50)年6月に石巻市の有形文化財第1号に指定された。板碑は、今もお墓にある卒塔婆で鎌倉時代から室町時代後期までの間に石製のものが盛んに作られた。鎌倉武士の供養風習として知られ、源頼朝の奥州征伐後、石巻地方をはじめその所領地にも広まった。

                 山門脇の板碑群

             草刈山から移設された板碑群

 旧石巻市(河北、雄勝、河南、桃生、北上の旧5町を除く)は、600基を超える板碑が確認されている板碑の集積地。その中でも多福院は数が多く、葛西氏に関連する特色的な板碑もある。その一つが、七代良清の法名(蓮阿)が刻まれている「蓮阿五七日」を供養する興国4年(1343年)の板碑である。この板碑は多福院東裏にある草刈山の路上に積み上げられていたものを石巻市教委が本殿裏側に保存移設した一群16基の中にある。さらに、八代満良(法名・蓮昇)ものとされる「蓮昇大禅定門」の一周忌と三十三回忌の板碑が現存する。

 草刈山板碑の中には「安養寺殿大禅定門」の三回忌供養碑がある。安養寺殿とは如何なる人物か知り得ないが、草刈山にはかつて安養寺が存在し、安養寺を創建した太守クラスの人物ではないだろうか。郷土史家の紫桃正隆氏は、鎌倉御家人・千葉頼胤の三男で三代葛西清時の娘を妻にして葛西別系になった葛西清信と推定。清信は嫡流家より先に代官として奥州に下り葛西所領を治めたという。奥州千葉系の菩提寺が安養寺としている。

 このほか、興国三年の「遠州平清明」五七日供養碑も注目される。北畠顕家の弟顕信と北朝の石堂義房が戦った三迫合戦直前、葛西太守(清貞)の甥にあたる遠江守(七代良清の弟清明)が顕信にそむき、清貞によって手打ちにされるという事件が起きた(白河文書)。その供養碑とみられている。

 湊地区は南朝方に関する施設や伝説が実に多い。石巻市湊大門崎にある一皇子神社には、後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮護良親王の伝説が残されている。護良親王は、鎌倉で殺されず臣下に守られて北に逃れ、石巻に隠れ住んだが数年後ここで亡くなり祀られたという。また、護良親王が海が荒れた時に熱田の神に祈って助かったことから熱田神社(石巻市川口町、石巻市湊西)を建て侍臣・毘羅塚大学を以って社司としたと伝わる。日下、日野、比羅塚、福原、遠山、志摩、岡本、淵辺の護良親王家臣8人の霊を祀ったという朝臣宮(石巻市川口町)がある。このほかにも、吉野町、御所入、二条橋など京にちなむ地名が今も残っている。紫桃氏は、義良親王(後村上天皇)の奥州入りに向け、葛西氏が石巻に迎え入れる準備を進めていたのではないかとする。義良親王は2度多賀城入りしており、3度目の奥州入りを目指したが途中難破し断念した経緯がある。護良親王、義良親王とも残念ながら石巻入りした史料は今のところない。

 葛西惣領家が所領地石巻で活動していたことは確実で、多賀城にいた北畠氏と連携しながら南朝のために戦っていたものと思われる。「吉野先帝御菩提碑」は、「吉野先帝御菩提也」の字が追刻だとする疑いもあるのだが、こうした状況の中で建立されたのだろう。南北朝期、多福院の板碑は南朝年号がほとんどだが、興国4年(1343年)を最後に南朝年号が消えてしまう。南朝の主力だった葛西も北朝へ転じざるを得なかったと推察する。

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