2022年1月29日土曜日

奥州葛西氏と石巻城址

 石巻市の観光名所として知られる日和山に、かつて葛西氏が城を築き、現在の鹿嶋御児神社の地に本丸があったとされる。関東御家人の葛西氏は南北朝ごろ所領があった石巻に下向し、戦国時代以降に登米寺池へ移ったとみられ、その間、石巻を拠点に奥州の有力豪族として活躍していたらしいのだ。豊臣秀吉の奥州仕置で滅亡したため史料に乏しく謎の多い葛西氏。そのためか、地元石巻でさえ地味な存在なのが残念でならない。




 1983(昭和58年)年の石巻市政施行50周年記念3大事業として、日和山公園に天守型の総合文化センター(仮称)の建設が計画され、市報にイメージイラスト付きで公表されたときは衝撃的だった。観光の目玉として歓迎する声も少なくなったが、市文化財保護委員らが猛反対をしたのだ。「天守のある城が登場するのは織田信長以降であり、中世山城の石巻城に相応しくない」というもっともな意見だったように思う。



 これを受けて石巻市教育委員会は、1983(昭和58)年8月から10月にかけて予定地の公園内一部を発掘調査。売店下の鯨噴水(現在は鯨の置物だけ残っている)から旧つつじ園前までの二の丸に当たる区域で、調査中に多数の柱穴が見つかり興奮した記憶がある。大きな発見はなかったものの中世の館跡を確認し、全面調査の時点まで現状のまま保存することとした。これによって、文化センターの建設地は海側の南浜町に変わり、建物もヨットをデザインしたものになった。
 その後、1997、98(平成9、10)年に鹿嶋御児神社北側などの発掘調査が行われ、本丸を取り囲むような深さ3メートルの空堀と土塁跡を発見。2010(平成22)年にはその延長線となる南側のあずまや付近に空堀が確認された。本丸を含む日和山中心区域を囲む防御施設とみられ、葛西氏居城跡の可能性が一段と高まった。いずれも石巻で葛西ブームを呼び込むチャンスだったが、一時的な話題で終ってしまった。



 葛西氏は下総国葛西御厨を本領とする御家人で、葛西三郎清重を祖とする。清重は源頼朝の呼び掛けに応じ、父の豊島清元とともに平家討伐に参加。続く、奥州藤原氏攻めでは、激戦地だった阿津賀志山(福島県伊達郡)で先陣を切り抜群の働きをした。この軍功により、陸奥国御家人事奉行、平泉郡内検非違使所管領の重職、胆沢、江刺、磐井、気仙、牡鹿の5郡と興田、黄海の2保を得た。所領の内、牡鹿だけ飛び地だが、牡鹿湊は海路と平泉を結ぶ川の舟運拠点だったからだろう。
 清重は、平泉に葛西館を設けて戦後処理に努めた後、本領の葛西御厨もしくは屋敷があった鎌倉に戻り、鎌倉幕府の要人として活躍したようだ。葛西惣領家の奥州下向は南北朝期とみられ、六代清貞が南朝方有力武将として牡鹿を拠点に活躍(結城文書)、七代良清、八代満良のものとされる板碑が石巻市湊の多福院(草刈山板碑群)に現存している。石巻城については五代宗清(清宗)が「石巻鹿嶋山ヲ出張之城ニ築キ」(葛西氏考拠雑記)とあり、延喜式内社として平安期からある鹿嶋御児神社の社伝には「清宗が石巻日和山に築城し、本社を南麓に移転。社領を寄進し社殿を造営する」との記述があるようなので、鎌倉期に支城が築かれた可能性はある。江戸時代の史料なので信ぴょう性は薄れるが「龍源寺本葛西系図」には、三代清時が「善光寺殿 湊殿」と呼ばれており、このころ既に石巻に支城があった可能性もなくはない。
 奥州の領主となった葛西氏は、隣国の奥州管領・大崎氏と対立する一方で、南奥の伊達氏と連携。伊達氏から迎えた(伊達成宗の子)養嗣子の十二代宗清は、永正期に桃生郡を治めていた山内首藤氏、登米の登米氏を攻め落とし、岩手南部から宮城北東部を領する屈指の大名へ成長させている。
 登米・寺池に移ったのは十四代晴胤の頃とみられ、義重、晴信と三代にわたって居城したと思われる。葛西家臣たちは独立意識が強く、家臣同士や隣国とのトラブルが相次いでいた。これが豊臣秀吉の鎌倉参陣に応じられなかったの理由の一つとも言われている。さらに、参陣については、伊達氏との関係を重視して見送ったきらいもあり、滅亡への道を歩んでいった。
 葛西氏については、今後も多福院の板碑、宗清と永正合戦などテーマごとに紹介していきたい。

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