2022年1月24日月曜日

湊館山館と慈恩院の倒れ墓

 石巻市湊不動沢の館山にある伊達家家臣笹町氏の居舘跡が湊館山館で、現在は大規模な採石や住宅開発で往時の面影はない。湊地区や中瀬が見渡せる場所もあり、地域の要としてふさわしい場所だったのかもしれない。笹町氏にまつわる恐ろしい伝説についても紹介していこう。


 笹町氏は鎌倉御家人の千葉系葛西親族で、鎌倉時代に笹町宮内少輔胤重が岩手県東磐井郡室根村に移り葛西家臣団の一員として笹町城を構えたと伝わる。

 豊臣秀吉の奥州仕置で葛西家が滅亡した後、笹町隼人は伊達政宗に召し抱えられた。わずか2貫文(20石)から出発した笹町氏だが、牡鹿郡湊村を拝領して野谷地開拓に努め130貫570文にもなった。

 1689(元禄2)年、隼人から数えて5代目の九左衛門が出奔したため改易となった。出奔の際「女色に耽り親族に対し面目が立たない」という書き置きを残したとされる。笹町氏の改易後は、伊達家累代の家臣遠山氏が入部したが、元禄17年に失脚。以後、湊村は藩直轄地になったようだ。

 笹町氏改易には恐ろしい伝説がある。石巻市吉野町1丁目にある慈恩院の倒れ墓の伝説だ。ちょっと長いので覚悟して読んでほしい。

<栄存法印と慈恩院の倒れ墓>

 栄存法印は摂州(大阪府北中部、兵庫県南東部)の人で松島の友・雲居禅師すすめで石巻地方に来ていた。1645(正保2)年、笹町新左衛門は代々信仰していた牧山観音堂の持戒僧として栄存を招いた。

 そのころ、北上川の河口あたりに泥が堆積し船の航行のため取り除く工事をはじめたが、風浪が高いため難渋していた。これを知った栄存は三日三晩祈り続け風浪を抑えたという。この功に報い伊達家は栄存に利府郷の土地5貫文を与えた。しかし、新左衛門は牡鹿郡磯田新田の土地と無理やり交換してしまった。

 栄存は秀吉から賜った明国の「九班の楓」を大切に持ち歩いていた。新左衛門は、この楓がほしくてたまらない。しかし、栄存はこれに応じようとはしなかった。

 栄存には常に連れ歩いていた姪がいた。そこで新左衛門は栄存を陥れる方策を考え付く。人をそそのかして栄存の姪を犯させ「栄存は姪を犯した」と訴え出る。栄存は必死に無実を訴えたが「疑惑を受けただけでも罪」と終身江島流罪に決まった。

 江島の栄存は、笹町を呪詛するため海中に浸り、手に灯をささげて祈り続けた。1697(延宝7)年には、江島に渡って来た人から笹町が安穏と暮らしていることを聞き、死して鬼となる決心をした。翌年、漁夫に「死体は逆さまに埋めよ」と言い残して餓死したという。この時、栄存の死体が海を越えて石巻の方に飛んだとか、燃える船が空を駆け湊町一帯に大きな火事が起こしたとか…。ただ一人栄存をかばっていた高橋太治右衛門宅だけ焼けずに残ったとの話がある。また、江島の漁夫は栄存の遺体を逆さまにするのに忍びず、普通に埋葬したところ、皆そろって熱にうなされてしまったため、逆さまに埋め直し碑を建てて手厚く弔った。

 新左衛門は間もなく発病し、苦しみながら死亡。長男とその嫁も後を追うように狂死、さらに一人娘に迎えた九左衛門も他国に出奔した。娘も死ぬに及んで笹町家は断絶した。

 新左衛門の碑は人々が運び出して北上川に投げ棄て、栄存の冥福を祈った。慈恩院の倒れ墓は新左衛門の嫡子・安頼のもので、立て直そうとする人たちはすべて狂い死ぬと伝えられており、今も倒れたままにある。

(昭和53年10月10日、グラフふるさと編集室編集・発行の石巻特集に掲載された「栄存法印と笹町奉行」を基にまとめました)


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