2022年1月22日土曜日

葛西大崎一揆降参将士誅殺の地

  須江山北側のJR石巻線佳景山駅にほど近い糠塚地区(殿入沢)に「大槻但馬守平泰常殞命地」と刻まれた石碑が建ってる。1914(大正3)年11月に国文学者の大槻文彦文学博士が建立したものだ。葛西大崎一揆が収束しつつあった1591(天正19)年8月、伊達政宗の指示を受けて葛西旧臣たちが須江山に集結した。葛西復活の夢を抱いていた武将たちだったが、到着した伊達勢(泉田安芸を大将にした軍勢)によって多くが討ち取られ、もしくは自刃に追いやられた。この凄惨な現場も、いまは至極穏やかだった。

 佳景山駅前から広渕に抜ける須江山沿いの県道を南下し、河南東中の駐輪場を過ぎてしばらく進むと「殿入沢跡」の標柱と説明版とともに高さ1mほどの石碑が建っている。石碑の裏側には、漢文で設置の由来がつづられているのだが、とても読みにくい。要旨は次の通り。

 『須江村糠塚の殿入沢は、わが祖・ 但馬守が落命した地。但馬守は葛西氏の支族で西磐井郡金沢村の大槻館に居住する。

 天正十八年、葛西氏は豊臣氏によって滅亡した。新領主として木村吉清が入領したが、圧政を強いたため葛西旧臣たちが激怒し兵を挙げ吉清を追放しようとした。

 鎮圧にやって来た伊達勢は降伏を勧め、将領二十余人を拘束し命を待った。豊臣秀次が東北に下向すると、一揆首謀者たちの斬殺をを命ずる。伊達勢は兵を繰り出した。旧臣たち二十余人は奮闘したが、遂に斬殺されてしまった。

 旧臣たちの頭を塩漬けにし京師に送られる。わが祖もこのなかにあった。時に天正十九年八月十四日。享年55歳。

 子孫、西磐井郡中里村に住し、先祖を祀ってきた。文彦はこの地に至って、すすり泣きながら徘徊し、立ち去りがたい気持ちでいっぱいになった。ここに一碑を建て、天に召された先祖の霊を慰む。

 地主桑島氏及び亀山氏の助力に感謝します。

 大正三年甲寅 十一月 十世孫 文学博士 大槻文彦 謹記』


 ここから、南に約200m進んだところには、「細田塚」がある。深谷小野城主長江氏の家臣木村上野重景の墓所だ。天正18年8月あるいは天正19年8月、長江氏の命を受けた木村は、この地で葛西旧臣・登米郡湖水城主の西郡新右衛門(新左衛門とも)と戦い討ち取ったが、自らも負傷し亡くなった。ここに塚を築き墓所とした。後に重景の末裔が1885(明治18)年に石碑を建立している。

 天正18年8月の奥州仕置での深谷合戦、天正19年8月の一揆収束後の深谷での葛西旧臣誅殺事件は日時、内容とも疑問点が多く混同されることも少なくない。この問題については、1996(平成8)年8月19日、河南東中学校で開かれた葛西氏滅亡400年記念「深谷の役」シンポジウムの内容を元河南町教育長の浅野鐡雄氏がまとめた「深谷の役と葛西大崎一揆降参将士誅殺事件」(耕風社刊)が詳しい。また、葛西旧臣誅殺事件について、郷土史家の紫桃正隆氏が著した「仙台領の戦国史」(宝文堂刊)で書いており、各家の古文書などを調査して検証した興味深い内容だ。

 戦国時代末期、葛西家は隣接する大崎氏と争い、葛西家臣間の争乱が相次いでいた。葛西家が豊臣秀吉の鎌倉参陣要請に応じられなかった要因がここにあるとも言われている。しかし、このころ葛西家は伊達家との連携を深めており、政宗の指示を待っていた可能性はなかったの「奥州仕置は伊達家に任される」とする政宗の書状の存在も気になるところだ。いずれ、旧葛西重臣たちは政宗の命を受けて深谷に集結し多くが亡くなっているし、最後の葛西家当主晴信の動きもはっきりしない。所領没収後、黒川郡大屋荘12村を賜ったが一揆後前田家に預けられた(葛西真記録)、もしくは所領没収後、上京して上杉家に属した(貞山公治家記録)という。奥州葛西史の謎は深い。

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