2022年1月21日金曜日

伊東七十郎(重孝)の屋敷跡と重孝神社

 江戸時代初期に起こった伊達騒動で、仙台藩を専横する伊達兵部を誅殺しようとして捕らえられ斬首された伊東七十郎のゆかりの地が石巻市内にある。北村地区にある屋敷跡と七十郎を祭った重孝神社だ。これまで、存在は知っていたが行ったことがなかったので、ネットの書き込みを頼りに自転車で巡ってみた。

 石巻市北村奈羅山二にある屋敷跡は、田んぼと林の間にぽつんとある標柱が目印で、非常に分かりにくい。石巻方面から国道108号を広渕方面に向かい、広渕街区では北村・前谷地方面へ右折せず、広渕郵便局方向の県道を直進。定川にぶつかったところで川沿いに右折して1キロほどすると右側に屋敷跡の標柱が見える。道路からは少し離れているので注意していないと見逃してしまいそうだ。田んぼ道に入って標柱まで行くと、丘に向かう小径があり、少し登ると二つの石碑が建っている。その一つには「烈士伊東七十郎の碑」の文字が見える。





 石巻市北村金堂二丁目にある重孝神社は、旭山公園入口の向かい側にあり、NHKの大河ドラマ「樅木が残った」放映当時に建てられたとみられる案内板がある。


 ここも田んぼ道を進んでいくのだが、藪と雑木に遮られ本当に神社があるのかどうか分からない。右手側にかすかに鳥居が見えるので藪をかき分けて進んでいくと参道らしい小径があり、その上に小さな社があった。見つかって良かったのだが、社がかなり傷んでいるのが残念だ。


 1888(明治21)年にまとめられた「伊東七十郎伝書拔」(作並清亮著)によれば、伊東七十郎は1633(寛永10)年伊達氏家臣・伊東重村の二男として仙台※に生まれた。伊東家は代々奥州安積を領し、1439(永享11)年に伊達持宗の麾下に入った。重孝の祖父・伊東重信は、伊達晴宗、輝宗、政宗に仕え、1588(天正16)年の郡山合戦では政宗の身代わりとなって指揮し、戦死している。重信の長男が重綱で二男が重村。重綱の養嗣子・伊東重義は、深谷・小野に所領を得、仙台藩の奉行にも就いている。

 七十郎は、仙台はもちろん江戸、京都で儒学、陽明学、兵学、国学などを学んだ。武芸にも通じていた直情実践の人と伝えられている。伊達兵部の専横に反発し、幕府目付饗応謁見の際の座席をめぐる問題で一気に爆発。親族の伊藤采女とともに兵部を討ち取ると決意したが、一関に向かう前に発覚し捕らえられ、七十郎は斬首されることなる。しかも、七十郎の父は切腹、母が死罪、兄重頼も切腹、重頼の子重良ら3人は流罪、重良の子2人が追放という重い刑となり、七十郎の無念さは如何ばかりかと思う。

 歌舞伎の「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」、山本周五郎の長編小説「樅木は残った」、同名のNHK大河ドラマで有名になった伊達騒動。その内容は長くなるので割愛するが、悪役扱いされてきた原田甲斐を忠臣として描き、一関藩主伊達兵部と老中酒井雅樂頭の陰謀から仙台藩を守るという山本周五郎ストーリーは、真偽を別にして魅力的だった。

※重孝神社の説明板には、北村に生まれとしている。家は北村にあったが、生まれた時は父のお役目で仙台にいたのかもしれない。 

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